利き酒倒れをいたしたく、休務日に酒蔵がひしめく伏見へ参る。
まずは、近鉄桃山御陵駅を下車、東歩して御香宮へ。
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/gokounomiya/
出迎えは神社らしからぬ豪壮な表門。伏見城の大手門を移した、と説明版にある。
ここでクエスチョン?どの伏見城の大手門であろうか??
そもそも天下人の秀吉が伏見城を築城したが、関ヶ原の前哨戦で徳川軍が籠城して落城。その後、天下を取った家康が伏見城を再普請し、家康・秀忠・家光と徳川家三代に渡って朝廷から将軍宣下を受けたのが徳川の伏見城である。
では、この大手門は、秀吉、徳川、どちらの伏見城のものか?
秀吉の伏見城は大方焼け落ちたからこそ新たに築城した訳であり、そもそも寄せ手の攻撃を真っ先に受ける大手門に矢傷や銃痕がない事から、現表門は徳川の伏見城のを移築したものであろう。
また、クエスチョン。二条城の門と比べても、天下人の城の大手門としては規模が大きいとは言い難い。せいぜい姫路城級ではないか。大手門とは、伝承に過ぎない可能性もあるのではないか。後日、調査だ。
立派なのは、表門だけではない。徳川一門が寄進した極彩色の拝殿・本殿は、いかにも権力者たちの形而物である。

伏見拝殿

(極彩色の拝殿)

とかく世俗で権力やら財力やらを握ったものは、栄達を掴むまで汚れて心の贖罪を兼ねて、宗教に奔る。伏見稲荷の千本稲荷を具体例に挙げれば、どの鳥居も大企業が大枚をはたいて建てたものに過ぎない。心の安寧を求める者どもに、宗教組織がうまく漬けこんだ結果であり、日本人はスピリチャアルなもので金銭に換金する風潮はいつの時代からあったのだろうか。

さて社務所に、「遠州ゆかり」の石庭アリ。せっかく来たのだからと拝観料を払う。
遠州とは、徳川幕臣にして江戸初期の名庭師、小堀遠江(こぼりえんしゅう)だ。
どれくらいスゴイ作庭家であるかは下記アドレスを参照。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kazuoy/ensyu.html
さすがに遠州の庭だけあって、いい庭である。

遠州ゆかりの石庭


が、どうも見ていて落ち着かない、と言うかしっくりこない。
禅宗寺院の枯山水庭園なら、庭園に面した方丈の中心たる室中(しっちゅう)の間から眺めるのが本来の観賞の仕方であるように、名庭と賞される庭園には然るべき中心点があるものだが、御香宮の石庭は北側に座敷が突出して、庭の広がりを阻害しているではないか。
それもそのはず。御香宮の南側にあった伏見奉行の職にあった小堀遠江が、奉行所内に作庭した庭園は、明治は陸軍、戦後は米軍キャンプ場と荒れるにまかせ、昭和32年に現在の御香宮の庭として石群を移した。それもN氏の作庭に依るものであり、遠州の庭をそっくりそのまま移したものではなく、石を転用したものに過ぎない。それゆえに、庭の木々は歳月がかもし出す風格に欠ける。

御香宮で忘れちゃーいけないのが、社名の由来となった名水「御香水」。本殿賽銭箱の左側でふつふつと湧いている。
清水を口に含むと、養老の味がした…と書きたい処だが、舌苔だらけ味覚音痴の拙者には、水の味を言葉にするのは難し。とある文学者が、酒(ないし料理)と女を書けるようになったら一人前とうろ記憶にあるが、そもそも硬度・におい・温度の違いはあるにせよ、存在証明を明らかにする香味がない水を表現するには、拙者の筆力に充分ではない。
ただ言えるのは、少なくとも水道水に氷をブチ込んだだけの弊館のお冷よりは、確実にウマイ。

伏見散歩その2へ つづく