遊歩道の現場を連載中ですが、今日はちょっと脱線します。
我ながら変なタイトルを付けたものです。
初めは、「海を見た猫と、花と咲く猫」 な~んてカッコいいのにするつもりだったんですよ。
最近天国へ召された2匹の老猫を巡る、保護主さんと私とのお話をしようと思ったのです。
知り合ったのは、猫が先です。
2匹は、どちらも猫崎町の猫でした。分かった範囲では、ウシ子は11年。ベビーは16年も、外で暮らしていました。
正直、私の目にはどちらも薄汚れたシニアの猫に見えました。
なのに、「この子と一緒に暮らしたい」と切望する人が現れたのには、ビックリしました。
でも今は、長く外で暮らして来た猫に対して、「もういいでしょう。最後はどうか、私と一緒に暮らして下さい」と思う気持ちが、
私にもわかるようになりました。
私も、公園で10年暮らした猫を迎えたからです。
外でひっそり生きている様子を長く見守り続け、その猫生の最後近くになって迎えたいと思う人がいてくれるのは、嬉しいことです。
外猫活動をしていて、これ以上のサプライズはありません。
最初は驚きましたが、私はふた組の年の差カップル(猫の方がずっと年上)の恋の成就と、
穏やかな新生活の実現とを、自分のことのように応援しました。
そしてその間に、ふたりの保護主さんと親しくなり、どんどん好きになりました。
2匹の猫が、この素晴らしいふたりを私と繋げてくれたのでした。
けれど、10年以上外で生きて来た猫を迎えるということは、その最期を見届ける覚悟をすることに他なりません。
一大決心のご褒美のような楽しい日々の背後に、身体の衰えという避けられない運命が日ごとに迫っているのです。
やがて、どこかの機能が不全に陥り、食べることができなくなった愛猫が痩せ細って行くのを見るのは、どんなに辛いことでしょう。
「あと少しで良いから、一緒に居て」という気持ちと裏腹に、「一日でも早く、この苦しみから解放してやりたい」と願う。
それは、愛していればこその苦しみです。
まさにこのような道筋を辿り、ベビーとウシ子は最近、相次いで旅立ちました。
ウシ子は2ヶ月、ベビーは半年の闘病生活でした。
それを支えて来た保護主さんの苦しみも、やっと、終わりを告げたはずでした。
2014年9月10日、巡田さんに保護される2ヶ月前のベビー。教会前にて。
この後急激に痩せてきて、相棒・幸女さんは、「ベビーはクリスマスを越せるだろうか?」と危ぶんだ。
11月17日、巡田さんが保護してくれたおかげで、ベビーは最後の冬を温かい場所で、
のんびりと過ごすことができた
先週の7月4日は、不思議な日でした。
私は我が家の新兵器・電動自転車で坂を上り、遠いスーパーに向かっていて、
我が町の名刹・T寺の山門前で、正面から巡田(めぐりた)さんがやって来るのに気づきました。
手を振ると、私と気づいた途端、巡田さんの顔がくしゃくしゃになりました。
私は自転車を停め、挨拶もそこそこに駆け寄って、巡田さんの肩を抱きました。
歩道の真ん中で、熟女2人が出会い頭、いきなり泣き出したのです。通りがかりの人は、何事かと思ったでしょう。
しばらくすると巡田さんは「いまだにこの通りなんです…。情けないでしょう?」と言いました。
それから巡田さんは、思いを一気に吐き出すように、
「具合が悪くなって、どこかに姿を消してそのままベビーに会えなくなったとしたら、耐えられない…。
そう思って、私のエゴで、うちに来てもらったんです。
でも、外の空気もたまにしか吸えない、狭い仕事部屋に押し込めて、ベビーは本当に幸せだったのか?
通院がストレスになると思って自宅療養にしたのも、私のエゴだったんじゃないか?
もっとしてやれることがあったんじゃないか?
ベビーのことを考えるとそんなことばかり思われて、今も毎日のように泣いてしまうんです…」と言いました。
私はただ、うん、うん、と頷きながら聞きました。
2015年5月5日のベビー。
巡田さんはベビーの様子を知らせるメールに、「今日のベビーはご機嫌です」という言葉をよく添えた。
まるで、年上の人を敬愛するような言い方が、私とトミ黒の関係とよく似ていて、いつも微笑ましく思った。
猫の17歳は、人間では何歳なのだろう? 16年の外暮らしを生き抜いたベビーに、敬意を感じて当然だ
ベビーは17歳でした。実に16年に及んだ外暮らしのうち後半の10年を、巡田さんは見守って来ました。
毎朝、ベビーに給餌をするために教会通りへ通ううち、
ニンゲンならではの毎日の浮き沈みをベビーに慰められ、ベビーはいつの間にか、巡田さんの「特別な1匹」になったのです。
昨年秋、ベビーは急に痩せました。
心配のあまり巡田さんが一大決心をして家に迎えたのは、11月17日のことでした。
その時の記録は、「居心地の良い場所に辿り着いた茶トラ 」という記事に纏めています。
保護した時、すでに腎臓の機能がかなり低下していました。
巡田さんは自宅で点滴しながら介護に勤めましたが、半年後の5月25日、関東地方を大きな地震が襲うその20分前に、
ベビーは静かに逝ったそうです。
ベビーの死を知らせてくれたメールに、
「今はとても、人に会える状態ではありません。ごめんなさい」 とあり、私はお弔いに行くのを慎みました。
ベビーはきっと、とても痩せていたでしょう。それを見る勇気が無かったのです。
翌朝、ベビーを梵田さんのお庭の金木犀の根元に埋葬したと知らせがありました。
ベビーは半年ぶりに懐かしい故郷に帰り、そこで、土に還る旅に出たのです。
確かに暑い時期でもありましたが、それにしてもあっという間の埋葬でした。
私は巡田さんが、長い介護の疲れとベビーを失った喪失感から寝込んでしまう前に、
最後の気力と体力を無理に振り絞って、ベビーを故郷に返してやろうとしたのだと感じました。
そんな経緯があったため、ベビーの死後、私は巡田さんと会う機会を失していたのです。
山門前で、私は長いご無沙汰を詫びました。
巡田さんは、たった一人でずっと抱え込んで来たであろう、言うあてのない後悔を涙とともに私に吐き出して、
お互い少し、気持ちの整理が着いた気がしました。
「ここで会えたのも、T寺の仏さまのお導きですね」と言うと、巡田さんは「またお会いしましょうね」と言ってくれました。
翌日、こんなメールが届きました。
「今朝も、ベビーが私を呼ぶ声で目が覚めました。もちろん空耳ですが。
毎朝、教会の生垣にベビーが好きだったシーバをひと粒、置いて来ます。
翌朝には無くなっています。
きっと、アリの仕業か、ボンかゼンチャ(外猫)なんでしょうけれど。
でもきっと、ベビーは今でも教会のどこかでのんびり暮らしている。
私にはそんな気がしてなりません」 とありました。
いかにも巡田さんらしいメールでした。
ベビーの死から40日経って、ようやく巡田さんが一歩目を踏み出したように、私は感じました。
ちゃぶ台のおかずを狙うウシ子。イタズラっぽい目をしていて、すっかり家猫さんだ。
ウシ子、海のそばのおうちの住み心地はどうだい?
ウシ子が死んだことを知ったのも、不思議なことに7月4日だったのです。
「ウシ子、7月2日に旅立ちました。ワタシが仕事に行っている間に、ひとりで逝ってしまいました」と、
Y子ちゃんが知らせてくれたのが、この日の夕方でした。
ウシ子は、猫崎神社の裏手の路地に、10年間もひっそりと暮らしていた猫でした。
いつもたった1匹で、同じ場所を離れないウシ柄の猫が無性に気になったY子ちゃんは、
2年間も、密かに手を差し伸べていたのだそうです。
後に、ウシ子があの花ちゃんの代違いの姉妹だとわかって、不思議な縁に驚きました。
2013年1月、ウシ子は頬に穴を開け血だらけになるという大怪我をしました。
Y子ちゃんは正月休みを返上してウシ子を通院させ、やはり一大決心をして、家に迎えました。
その後、若いご夫婦は湘南の海のそばに素敵な民家を見つけ、ウシ子を連れて引っ越して行きました。
この時の経緯は、「猫だまりのウシ子 」として記録してあります。
「猫だまり」時代のウシ子。その後、私の公園繋がりから、ウシ子がハマグリと呼ばれていたメス猫の子で、
アサリと呼ばれていたこと。シジミという子猫を産んだが、シジミは大通りで車に跳ねられて死んだこと。
花ちゃんもハマグリの子で、ウシ子と花ちゃんは代違いの姉妹であること、などが分かった。
波瀾万丈の猫生のひとつも、猫は語らない。不平不満を一つも言わず、今を受け入れる
私はY子ちゃんの瑞々しい感性と、他人を思いやる優しさが大好きでした。私の方がずっと年上なのに、学ぶことばかりでした。
Y子ちゃんのブログをいつも覗いて、今や湘南の飼い猫となったウシ子の生活ぶりを知るのを楽しみにしていました。
しかし、今年5月頃から、ウシ子の腎機能に問題が見つかったと載るようになりました。悪化は急激でした。
点滴の効果が無くなり、口内炎が悪化。
食べたくても食べられないウシ子を抱いて、Y子ちゃんはきっと涙を堪えているでしょう。
飛んで行って慰めてあげたいと思いました。
6月26日の記事を開けて、私は驚きました。ウシ子がなんと、砂浜にいるではありませんか
ちんまり座り込むウシ子と一緒に、Y子ちゃんとご主人の姿も写っていました。
ウシ子にも海を見せよう!と張り切ってくれたご夫婦には、すでに死期が近いという、予感があるのだと感じました。
(→柴犬アデ~「ウシ子海へ行く。」 )
それにしても、海を見た猫
ウシ子。長生きして良かったね。海を見た猫なんて、猫崎公園にはあんたの他に居ないよ
私も一緒に砂浜へ連れて行って貰った気持ちがして、思わず泣き笑いしました。
でもきっとウシ子は、「波ってのは落ち着きがないし、うるさい奴だねぇ。アタシゃ、家の方が落ち着くわ。もう帰ろう」と、
ワガママを言ったに違いありません。
最後のご飯タイム、水を飲ませようとするY子ちゃんに、ウシ子は「もういいぇ」と言ったそうです。
ウシ子は、自分を心から大事にしてくれて、今、大きな目を涙で潤ませているこの若い女性に、
「あんたのおかげで、アタシの人生オマケがついて、楽しかった。ありがとうにゃ。もう充分だよ」と言いたかったのでしょう。
ウシ子は、Yちゃんが仕事に行っている間に、ひとりで静かに逝きました。
まだ温もりのあるウシ子の穏やかな死に顔を見て、Y子ちゃんがその夜どれほど泣いたか。
…その光景が、見えるようでした。
美しい緑色の目が、あなたたち姉妹の特徴だったね。
ウシ子。この世は楽しかったかい?
Y子ちゃんがいつまでもめそめそしていても、大目に見てやってね
こうして、ベビーも、ウシ子も、旅立ってしまいました。
10年以上も外で暮らしていれば、命の放物線はとうに、頂点を過ぎています。
その下降は自然の摂理で、誰にも止めることなどできません。
身体がどんなに辛くても、ひとつも不平を言わず、運命に逆らわず、
おまけに一緒に暮らすニンゲンを労わるような見事な逝き方を見せつけて…。2匹とも、なんと見事な旅立ちでしょう。
そして、残されたニンゲンの、なんと悲しいことでしょう。
巡田さんも、Y子ちゃんも、きっとこれから長いこと、
ささやかな感覚や、匂いや、音に、記憶を呼び覚まされて、その度にホロホロと涙を流すのでしょう。
…それで良いのだと思います。
私は、巡田さんとY子ちゃんのために、めそめそ倶楽部というのを作ろうと思いました。
以後無期限に、ベビーとウシ子を思い出して、一緒にめそめそしまくろう …という倶楽部です。
巡田さんとならT寺の参道で。Y子ちゃんとなら猫崎公園のベンチで風に吹かれ、ビールでも飲みながら。
「可愛かったねえ」「もう一度、会いたいねえ…」と、
1年後でも、2年後でも、思いっきりめそめそして、愛した猫たちを盛大に偲びたいと思うのです。
愛しいものを無くして、泣くことは、恥ずかしいことではありません。
ベビーとウシ子が繋げてくれた、大好きな巡田さんとY子ちゃん。
敬愛する2人とのそんな関係が、これからもずっと続いていくことを、願うのです。