「棄てない引越し」の続きに着手できないまま10月になってしまいました。
待っていて下さった皆様、ごめんなさい。世紀の引越し(笑)、終わりましたよ。
爽やかな好天に恵まれたシルバーウィーク明けに、仮住まいを退去し、
母は晴れて、オンボロ団地の生まれ変わりである、新生・オリンピックガーデンズの居住者となりました。
引越しは23日と24日でした。つまり、膨大な荷物を移すために、引越しを2セットやったのです。
その後も毎日通って荷解きをしましたが、片付けるほどに素敵な家になり…。母は大喜びです。
たくさんの皆さんに手伝って頂きました。どんなに感謝の言葉を重ねても足りません。
大変なひと月でしたけれど、収穫もたくさんありました。
何年か後、あの時は皆で良く頑張ったね~お母さんも偉かったよ、と、一緒に笑って思い出せる気がします。
完全プライベートな私の母の引越しの記録で、今回も猫は出て来ませんけれど、ご容赦ください~
本日の画像は、「母のお宝シリーズ」。
これは書類を留めたホッチキスの芯を伸ばして集めて箱に貯めていたもの。
お母さん、仕事が丁寧だね~
9月初めに引越しの枠を割り振られながら(→「棄てない引越し 」)、これで良いのか?という気持ちがありました。
私には海外在住の和子という姉がいるのですが、この10月半ばに、夫ヘルマンと来日することになっています。
もちろん、建替えられた新居で母の新生活を見るのが目的です。この娘夫婦の来日が、母が引越しを急ぐ理由でもありました。
その姉に、私は相談を持ちかけました。
「見積りに来た人が、あまりの荷物の多さに仰天してました。でも本人はちっとも自覚がないようだし…
暑い盛りにあの量の引越しを強行して、お母さんがどうにかならないかと心配です。
今さらなんですが、私は引越しを11月に延期してはどうだろうか?と思っているのです。
つまり、和子さんたちがそちらへ帰った後です。とんでもない計画ですけど、意見を聞きたいのです。
お母さんは、”棄てればタダのゴミだけど、持っていれば、いつか活かせるチャンスがある”と言い張って、
何も棄てずに、全部新居に持って行くつもりでいます。
北側の2部屋を納戸にしちゃえば良いし、ベランダだってたくさん置ける、とか言っています。
でも私から見ると、活かす当てを見つけられないまま個人で抱え込んでいる限り、ゴミと同じだと思うのです。
私は新しい家を、大きなゴミ箱にはしたくない。それだけはごめんです。
もし何年か後にお母さんに何かあったとしたら、私一人であの膨大な品物を整理する自信は、とてもありません。
だから私は、今回の引越しを機に、お母さんに自分で持ち物を整理をして貰いたい。
そういうの、こちらでは生前整理というんだそうです。
で、和子さん。今回の来日ですが、それに付き合うつもりで来てもらえないでしょうか?
引越しを11月にすることにして、10月に来日した和子さんと私とで、お母さんの荷物整理に丁寧に付き合って、荷造りをする。
今、それをしておいたら、この先何があっても、その時どこに居ても、私たちは不安にならずに済むでしょうし、
きっと、あの時お母さんと一緒に作業ができて良かったと思う日が、遠からず来るでしょう。
どうでしょう?せっかくの来日を台無しにしてしまうかもしれないから、ヘルマンの意見も聞いてお返事下さい」
姉からは、思ったより早く返事が来ました。
「最初は反対していたヘルマンも、私がお母さんに付き合いたいと話したら、折れてくれました。
わかりました。今度の来日は観光ではなく、新居見学でもなく、お母さんのために使いましょう」と言ってくれたのでした。
ところが…。
この計画を話して聞かせると、母は意外にも素直に「そうせい」と言ったため、私は9月の引越しを破談にしました。
そうしてしまってから、「やっぱり、9月に引っ越したい」と言い出したのです。
「みんなが私を待っているから」とか何とか、はっきりしない理由を並べるので押し問答しているうちに、
高ぶった母の口から、こんな言葉が飛び出したのです。
「…あんたは、一番大事なことがひとつもわかってない
私もいつ死んでもおかしくない年。和子と会うのは、これが最後になるかもしれないと覚悟している。
せっかくやって来るのだから、新しい家で、できるだけのことをしてやりたい。あんたには、それがわかってない」と言うのです。
「だからこそ、和子さんはその引越しの準備をお母さんと一緒にしたいって言ってくれてるんだよ」と反論すると、
「荷造りを!?あの子にそんなこと、絶対にさせられない」と叫んだのでした。
私は返す言葉を無くしました。
私には、一番大事なことがわかっていない…
痛恨の言われようでした。私は、母の最後の引越しを家族みんなで支えて、実りあるものにしようとしたのに…。
私の演出は、きっぱり拒否されてしまったのです。
加えて、もうひとつ。
私と姉では、昔から扱いが違いました。出来が悪い分逞しく育った私としては、そんなことはとっくに乗り越えていて、
どうでも良いことでした。
でも、遠慮のカケラもなく「あの子にはそんなことをさせられない」と言われたら、
じゃあお母さんは、私なら何をさせてもいいと思っているワケ と深読みせずにはいられませんでした。
親の心、子知らず。子の心、親知らず。 …その言葉の通りでした。
母と私はよく似ていました。
互いに熟考するタイプなので、それぞれが出した結論には一切の異論を挟まむことなく、スルーしてきた母子関係でした。
それが相手を信じている証でもありましたが、面倒くさいというのもありました。
でも、どんなに立派な親でも子でも、生身の人間です。
相手を尊重しているつもりで、根っこには自分中心の考えがあって、いつの間にか相手を置き去りにして、突っ走ってしまう…。
今回の私のプランに対してそう感じて、母は珍しく、本音むき出しで抗議したというワケです。私はハッとしました。
似た者同士が衝突すると、火花も派手なのだと身に沁みました。
あの言い方にはいたく傷付きましたが、母がそうしたいのなら、寄り添って実現させる以外に選択肢はありません。
この一件以来、私は母の意志を尊重しながらも、娘として通すべき道筋をどう納得させるか?それをいつも考えるようになりました。
結局、私はあちこち算段して、5月にお世話になった業者さんに引越しを依頼しました。
日時は9月のシルバーウィーク開けを選びました。気候も良いでしょうし、これなら姉夫婦の来日にもギリギリ間に合います。
姉の援軍は期待できなくなったので、私が頑張るしかありません。最大の課題は、どうやって持ち物を減らすか…?です。
母の目を盗んで棄ててしまえば良いというワケではありません。
ひとつひとつ、必要とする人を私が探し出して、「活かして貰える場所を見つけたから手放しましょう」と持ちかければ、
あの母なら、きっと納得するはずだと考えました。
私は、娘にも協力してもらって、受け入れ先を探し始めました。
相模原のシェルターまで運んだ物資。暑い日で大変だった。
この後、これらは役に立っているだろうか?
可愛い猫たちが良いご縁に結ばれることを願ってやまない
7月、多頭崩壊現場から猫を保護した団体が、シェルターとして新しく部屋を借りる予定だと分かりました。
必要な物品を探して居るというので、母に寄付を持ちかけました。
母は喜んで、「そういうことなら、ここにある何でも持って行ってあげて」と言いました。
扇風機、空気清浄機、冷風扇と掃除機を1台ずつ。それにホットカーペットを3組。すべて動作確認して準備しました。
加えて、綺麗に洗濯して保存してあった中古のタオルやタオルケット、ラテックスの手袋やゴミ袋などを母が選び出して、
私は汗だくになって、それらを団体に運び、寄贈しました。
毎月支援物資を届けているという知り合いには、布団や座布団を託しました。車一杯分の荷物を福島へ運んでもらいました。
一方、不要の大型家具には手を焼きました。
母は、亡くなった友人の家具をいくつか引き取っていました。生前愛用していたことが分かる家具ばかりで、
これを粗大ゴミにすることは、さすがに躊躇われました。
私は写真を撮って、あちこちのアンティーク家具屋さんを訪ね歩き、修理すれば売れるかもというお店を探し当て、
引き取ってもらいました。
友人の遺品が壊されずに積み込まれて行ったことを、母はとても喜びました。
それが契機になったのか、母は自ら粗大ゴミの手続きをして、家具をいくつか処分したようです。
アンティーク小物を扱う業者さんにも、来てもらいました。
驚くほどの買い取り価格です(安すぎる)。それでも母は、古いお宝を次々出して来て、惜しげもなく手渡しました。
父の大きな本棚は我が家で引き取ることにして、その分、本を減らすことにしました。
もう、活字を読む気がしないと自ら言ったのです。でも、百科事典や美術全集などは手元に残すことにしました。
「この家具を本棚として寝室に置いて、そこに入れようね」と言うと、母は自分で荷造りに励みました。
不要な本は箱詰めにしてブックオフに連絡し、送料無料で取りに来てもらいました。
集合ポスト脇のゴミ箱に棄てられていたマグネット版を、母は全部回収して箱に納めていた。
いつか返してあげたら喜ぶだろう~と言っていたが本気でそう思っていたのだろうか?
ゴミ箱直行のこういった販促ツールに、どんな意味があるのか? 考えてしまう
でも、今回一番助けて頂いたのは、ブログを通じて知り合った私の友人でした。
彼女が保護猫の医療費やTNRの費用を捻出するためにフリーマーケットをしているのは知っていました。
けれど今回、長年の実績で老人ホームや犬の保護団体、発展途上国支援などの伝手も持っていることがわかりました。
これはまさに、母たちのグループがずっとやって来たことと同じでした。
年を取って、機動力もネット環境もないため送り出せずに溜め込んで居た物資が、彼女のおかげで、
やっと日の当たる場所へ引き出されて活かしてもらえるのです。
母と友人の志が重なって、世代をまたいでバトンが繋がったような、不思議な感動を覚えました。
引越し用の大きな箱でのべ10箱以上、
フリマで売れそうな物、保護団体で役に立ちそうな物、老人ホームで使って貰えそうな物と、いちいち母と相談しながら詰め込みました。
9月10日、居座った雨雲の下で豪雨が続き鬼怒川の堤防が決壊。後に東日本豪雨と呼ばれる大災害が起きました。
その翌日、あの泥だらけの被災地へ、バスをチャーターして支援物資を届けようと出発した人たちがいたそうです。
「あなたのところなら、必ず何かあるだろうと思って」と、ブロ友の家に寄ってくれて、
母が送った大量のシーツや布団カバーなどを、そのまま被災地へ運んだそうです。
「まるで、運命のようなタイミングでした。
お母さんの大切な物資は、この日のために、長いこと眠っていたかのように感じます」とブロ友は言ってくれて、
私はその巡りあわせにしみじみと胸を打たれ、皆さんに感謝しました。
ひとつひとつ母と話し合って行先を決めているうちに、私はだんだん、不思議な感覚になっていきました。
80代独り暮らしでは二度と使わないであろう、大きな立派なお鍋のセット。何組もの布団。
梅干し用の大きなホーローの樽。直径80センチもある盆ザル。味噌豆を煮るいくつもの圧力鍋。
団地の果実を収穫するための年代物の高枝切バサミ…。
これらはかつて、上京した親戚や父の教え子をもてなすために、
ボランティア仲間と作業するために、私たち兄弟を育てるために、大活躍したものでした。
これらの全てを、若い頃の母がイキイキと使いこなしていた光景を思い出したのです。
母は、いつもそうやって精力的に暮らし、人を集める魅力に満ち、生きることを楽しんでいました。
建替えられた団地に戻ったら、以前のようにご近所の友人が毎日集まるでしょう。
そうしたらまた、この鍋を使うかもしれない。
また、梅干しを漬けるかもしれない。味噌を仕込むかもしれない。梅が実ったらみんなで収穫に行くかもしれない…。
母の生前整理に付き合っていたつもりだったのが、
これから始まる母の新しい暮らしのイメージが膨らんで、何もかもが値打ちある生活の仕掛けのように思われ始めたのです。
そういう日が復活することを、私自身が望むようになって来たのだと思います。
「無理して手放さなくてもいいよ。持って行こう。また、使うかもしれないよ」と自然に口にする、私自身の変化に驚いていました。
蓋付きの瓶の中には、プルタブが集められていた。
そういえば、プルタブを集めて車椅子を寄付しよう!という運動があったけれど、
今もやっているのかな?
これはしかるべきところへ納めるつもりで持ち帰った
けれども、家中の荷物の整理が進むうちに、そんな感傷も吹き飛ぶ事実が明らかになりました。
我が母親は、やっぱり、ハチャメチャな御仁でした。
引越しの前日、母はゴミ捨て場からこっそり敷布団を2枚拾ってきたのがバレて、私に怒鳴り飛ばされました。
空にしたはずの食器棚には、ミキサーやらジューサーやらが7個も並べられ、
「そのうち誰かにあげるから」と、しれっとうそぶいています。
あちこちの部屋から、買ったことを忘れていたらしいオイルヒーターが2つ。未開封の真空パック機が1台。最新式の扇風機が2台。
おまけにスウェーデン製の高級掃除機のスチーム部品が一式、さらにルンバまで出て来たのです
お母さん、これ、いつ買ったの誰が使うの 勘弁してくれ~
仮住まいの4年間に、どうやら母は代引き通販という悪癖に冒されていたようでした。
母を相手に、怒鳴ったり罵り合ったり、呆れたり、凹んだり、笑ったりしながら荷造りは続き、
世紀の引越し当日が、少しずつ迫っていました。 (続く)