夜中、リビングに様子を見に行くと
南極物語の録画を見てボロボロ泣いて
ぽけーっとした母の姿が。
TVはCMに切り替わり、
栄養補助食品を勧める 「 健康を気遣う健康な高齢夫婦 」 の映像。
「・・・なんでうちは夫婦一緒に過ごせなかったんだろう。」
彼女の夢だった老後の姿。
たまにこういう発言をして私を困らせる。
その後、気の聞いた言葉もかけられずに事務所に戻り
ひとしきり落ち込んだ。
いつものパターンだ。
津波で家族をはじめたくさんの 「 何か 」 を失った方の手を握り、話を聴いている私は
こういうとき、途端に無力になる。
父の死の直後、彼女は死を選ぼうとした。
その時はそれを止めるのに必死だったし
その挙句、私の自由・未来を奪ったと、母と一緒に私自身が死を選ぼうとさえ考えていた。
そう考えると、被災によってもたらされた 「 死 」 によるエネルギーは本当に想像を絶するものだ。
被災地を回っていて、「 死 」 と向き合って来た私は
もはや 「 死 」 という選択すら、尊重したいと思う。
もちろん、「 死 」 を選んでいく人をそのまま 「 どうぞ 」 という意味ではない。
そのために被災地で1軒1軒、話を聴いている。
隣で流されていった人の「助けて」という声が耳から離れない人。
家族の中で一人だけ生き残り、幾つもの位牌を抱えて過ごす人。
津波の翌日、たくさんの遺体をかきわけ、自宅に戻った人。
窓の外には廃墟が広がり、いやがおうでも現実を目にする日々。
町の中心地が流され、仕事もなく、家の修理もままならない人々。
家族や友や自宅や仕事、たくさんの思い出、日常・・・失ってしまったたくさんのもの。
生き残った罪悪感や自身の価値の損失、
そして呼び起こされる 「 死 」 という選択。
家族を失って、他のいろいろなものも失って
何もしたくないなら何もしなくてもいい。
それは決して悪いことじゃない。
もう自分を責めなくていい。
ダメなことなんて何もないんだ
あなたは大切な人なんだ
価値のある人なんだ
見守ってるよ
大好きだよ
信じているよ
少しでも気づいて欲しいと願い、足を運んでいる。
それでも、それでもどうしても生きることを選べないのだとしたら
それもその人の選択なんだと思う。
母に対しては、どうだろう。
彼女が 「 死 」 を選んだら、私はどうやって生きていったらよいのか分からなくなるだろう。
母を愛する娘としては、一緒に楽しく過ごしていきたいと願う。
だからこそ、
父の死後、父の代わりをしていろんな役割を果たしてきた。
そこで、はたと気が付いた。
娘として、どうだったんだろうか。
父を失って悲しい、どうしていいか分からない、そんな思いを
母に伝えたことはあっただろうか。
父の闘病中に、1人で医師から本当の病状や死期について話を聞き、
父を、母を元気付け、
私はいつも元気でなければならなかった。
そして、膨大で見たことないような事務仕事を淡々とこなし、
常に母を安心させてきたのだ。
ああ、そうだ。
家事全般を彼女に委ねることで 「 母の役割 」 を与えた、と
満足していた私はなんと浅はかだったのか。
父を失って悲しいのは、あなただけじゃないんだよ。
そうだね、私も悲しいよ。
そういって一緒に泣けばいいんだ。
娘になろう。
娘でいよう。