三浦和義さんのニューヨーク時代の知られざる素顔 | 裸のニューヨーク

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ユー・ドント・ノウ・ニューヨーク・ザ・ウェイ・アイ・ドゥ...これは私のアンビバレントでパーソナルなニューヨーク・ストーリー。

三浦和義さんが容疑者となった殴打事件と銃撃事件は、日本では既に決着が付いている。それが、
事件から20年以上もたってからのサイパンでの逮捕劇で再び三浦和義さんの過去の言動や人となり
にスポットが当たり、かつて彼を取材した人々がテレビで彼についてコメントしている。
いわく「不思議な反応をする人」「饒舌」「聞き上手」「女性にモテる」などなど。

散々報道されつくした感のある三浦氏像だが、事件の舞台となったアメリカでの言動は知る限り
あまり報道されていない。彼は70年代に「三浦ドレス」という会社を興し、ロスアンゼルスや
ニューヨークで古着を仕入れて日本で販売していた。そのころ、ニューヨークで古着屋を経営
していたわたしは同業者の彼に会う機会が数回あった。その時の印象や経緯を記してみるのも彼
の人物像を知るのに無意味ではないかもしれない。

1970年代の半ばごろ、わたしはニューヨークのグリニッジ・ビレッジで古着屋を経営していた。
数ブロック南にSさんという日本女性と彼女の夫が経営するブティックがあり、舞台用の派手な
色使いの着物をショーウインドーに飾って売っていた。
ある日、Sさんが背の高いスラリとした男性と一緒にわたしの店にやって来て、
「アキコさん、こちら三浦君」と紹介した。
「どうも!」と頭を下げるでもなく「よろしく」と笑顔を見せるでもなく、無愛想にわたしを
見下ろしていた。暗くてちょっと変わった人だなあという第一印象を持ったのと、わたしをじっと
見据えていたのを覚えている。

Sさんの店に飾ってある着物を、日本から持参してSさんに卸していたのが三浦和義さんだった。
彼は年に2ー3度ニューヨークに来て、着物を卸すと同時に、イーストビレッジ周辺の店で古着
を仕入れ、日本で売っていたと後に東京の業者から聞いた。
数日後、今度は1人でやって来た。暗い目を笑って崩すこともなく、入り口に立っている。ほとんど
話さないのでどういう理由で来たのかもわからないまま、とりあえず近所のカフェにコーヒーを飲みに
行く事にした。始終寡黙だった彼が、店のテーブルに着いた途端、「工藤さんはセックスに自由な人
なんでしょう?」
と唐突に切り出したのは驚いた。世間話で無駄にする時間などないとでもいうような話し方だった。
びっくりしたわたしはどう答えたのだったか、「どうでしょうかねえ」などとはぐらかし、コーヒーを
飲んでそそくさと店に戻った。
以後、彼はわたしの店には姿を見せなかった。利用価値がない女だと判断したのだとわたしは思って
いる。
初めて会ってから半年ほどたったころ、宿泊先のホテルから夜、いきなり電話がかかって来た。月に
30万円ぐらいもうかる話があるからすぐにホテルに来てくれ、という事だった。現在の安全なニュー
ヨークと異なり、8時を回ったら危険なエリアには近寄らないというのが常識だった時に、既に9時
を回っていた。
ホテルというのもせめてヒルトンぐらいならタクシーを飛ばして行ってもいいと思ったが、名前も
知らない場末のホテルではなおさら危険である。
明日にしませんか、と言うと明日では遅い、とか僕を信用しないんですか、などと押し問答のような
やり取りがしばらく続いてうんざりしたわたしは結局その話を断った。

それから数年たち、帰国して古着の展示会をする時に彼に電話をして、一度だけ原宿で会った。
古着の山が占領しているアパートをその時に見せられた。
ニューヨークでの彼の印象は一言で言えば「こわい」というものだったが、日本ではそうした雰囲気
は消えていた。
その後、古着ビジネスを離れたわたしは、「ロス疑惑」報道が連日テレビを騒がせていたころ、その
主人公がニューヨークで会った三浦和義さんだとは最初わからなかった。「三浦ドレス」という会社
名を聞いてハッと気づいたのだ。
過去のインタビュー映像も現在の彼も、一種穏やかな口調と表情で、わたしの知る三浦和義さんとは
かなり違った印象だが、目が決して笑わないところだけは昔とちっとも変わらない。
今回のてん末がどうなるにせよ、再び騒動の渦中に放り込まれた因果な人の顔を、わたしはなつかしさを
持って眺めている。

■関連本

さよならツインタワーニューヨーク古着屋物語