どこかへ吸い込まれていくように次々と湧きあがる湯気が、ただでさえ不鮮明なものを、より見えづらくしているように思えた。我先にと急きながら進む先を変え、太さを変え、ねじり方を変え、ふつりと姿を消したその場には、それまで見えていなかった何かが姿を現しているように感じる。けれど小さなカップからひとつまたひとつと湧きだすそれは、消えたと思った奥の方から別の筋が顔を出し、いつまでもどこか霞んだままで、晴れ渡ることなんてない。たなびく向こう側から、ぽつりとひとつ、声がする。


「最近なんだか、自分の直感が、前ほど信じられなくなってきたような気がしてね。」


薄暗い部屋の中、オレンジがかった裸電球に照らされて、白くぼんやりとしたものがまぁるく浮かんでいた。光を受けている鼻先と、その下の軽く尖らせた口の部分だけが生きていて、他の部分は陶製の人形であるかのように、無機質で、つるんと、ひんやりとして見える。当たる光はあたたかな色なのに、温度をうまく感じられないというのは、彼女の発している何かとくべつなもののせいなのだろう。

尖らせた口の先から吐く息とともに出てきたその言の端は、果たして、あたりがすっかり晴れるまでにどこかへ辿り着くのだろうか?


「右と左のどっちへいくとか、あれとこれのどちらを先にするとか…」


どこへ向かうかにはお構いなしに、声は続く。

 大切なのは向かう方向ではなくて、“どこかへ進んでいる自分”の確認なのだから、こちら側に座っている僕はただ黙って聞いている。


「似たようなものとかどちらでもいいものの場合、迷いはじめるとぐずぐずとしてしまって、いつまでたっても決められない。でも、稀にふと、何の疑いもなく即座に手を伸ばせるときが、あるのよね。優柔不断な私でも。いくつもの同じような選択肢が並んでいる中で、そこだけライトで丸く照らされて浮かびあがっているみたいに、はっきりとわかる。ほんとうに、すとんと、私の掌の真ん中に落ちてくる感じ。あぁ、そうなんだ。私はこれを選べばいいんだ、って。」


ライトで丸く照らされて浮かびあがっているみたいに。今のあなたの白い頬のように。


「理由もない安心感が時にはものすごく大きくて、まだ何も始まっていないっていうのにすべて終わった後のような満足感まであったりする。それってちょっとおかしいでしょう?先走りもいいところ。でも、確実にこの光が、何か新しいものへとつながっているんだ。だから大丈夫、このまま進んで行っていい。この安心感を、この先必ずもう一度、デジャヴのように味わえる。そんな気がするのね。」


そう、必ず味わえる。あなたがそれを、本当に求めているのならばね。


「そして、その日が近付いてきて、直前になれば少し迷ったり悩んだりすることもあるけれど、予定を変更しようと心を決めるほど、強い揺らぎになることはない。絶対前進するんだ、できるんだって勢い込んでいるからなのかもしれないけれど、そこまで大きな不安に駆られることはないの。

出発の当日は、新しく始まるであろう諸々への期待感で、不安とか迷いとか、昨日まで引きずっていたものもあらかたきれいになくなっていて、すっきりと満面の笑みで過ぎ去るものにも手を振れる。旅立ちの瞬間っていいものよね。少なくとも、確実に昨日までとは違うどこかへ、一歩を踏み出すことが出来るんだから。」


やわらかく目の端がゆるむ。長いまつげに丁寧に縁取られ、きれいな三日月型をした、深い色の目だ。光の角度でその色ははっとするほど薄く澄んだ輝きを見せる。そのことを、あなた自身が知っているかどうかはわからないけれど。


「ここで終わりだったのよ、少し前までは。わくわくした気持ちで大きく一歩を踏み出した勢いのついたまま、どんどん進んでいったの。力強く手を振って。どんどん、前へ、前へ。私を待っていてくれる、一度蜃気楼のように味わった安心感へ向けて、ね。」


 そして一瞬息を止め、目を伏せながら小さく吐き出す。

ここで終わりだったのよ。

終わるはずだったのに。

何かが違い始めたと感じるのなら、ますます、食い違っていくだろう。なぜならそれは、あなたがそうなることを、いつのまにか望んでしまっていたからなのだから。


「でも近頃は、目的地について荷物を整理して、新しい空気を吸って、新しい空を眺めて、一日か二日のんびりしていると、なんだか途端に後悔がどっと押し寄せてくるの。どうして今来ちゃったんだろう。どうしてもうしばらく留まらなかったんだろう、って。こざっぱりとした小さな部屋の一角に立ち尽くしたまま、周りにある新しい机も椅子も鏡もソファーも本棚も、ぜんぶ私に冷めざめとした視線を送っているような気がしてくる。喉の奥のほうから重たい空気のかたまりが、変な汗とともにじわじわとせりあがってくる感じ。ひと呼吸ぶん早く爆弾のスイッチを押し間違えてしまったように、ほんのわずかな差で取り返しのつかない致命的な過ちを犯してしまったんじゃないかっていう後悔。大きな黒い影が、すぐ真後ろにせせり立ってくるような焦りで、手のひらの表面の空気までも、どきどきしてくるの。」


 肩をすくめ、思い出すように手のひらをこすり合わせる。手のひらに比べてひんやりとしていることに気付いた手の甲を慌てて温めるように、ていねいに丁寧にこする。

 ぼんやりとした光の向こう側で、黒い影も同じように、不安げに背中を丸めて手元を動かしていた。


「もう来てしまったのなら楽しめばいいのだし、どうしても嫌なら帰ればいい。そう皆言うのだけど、私だってそれが一番なのだろうとは思うんだけど、体がこわばってどちらも出来ずに座り込んでしまう。割り切れないままいたずらに時間だけ流れていって、一週間もすれば慣れか諦めかで、どっちでもよくなってくる。そこでようやく、再び落ち着いて息が出来るようになるの。

結局は流れるべき流れに任せるしかなくて、諦めの悪い私がたどるのは、またいつものパターン。良かれと選んだ方が実は良くなかったんじゃないかって後から思えても、通り過ぎた後に振り返れば、絶対これでよかったんだって思えるはずなんだから。迷いながら、ぶつかりながら大きくぐるりと回って、時間も手間もかかるけど、それが私にとっての最短。良い悪いじゃなくて。それが私の成長の道であり、しるしなのよね。必要あってやってくる苦しさを、喜べばいい。

…だけど。それはわかっているんだけど。でも、その一週間が長いのよ。とてつもなく長くて、いつまでたっても慣れることなんて出来そうにないって、叫びたくなる。」


うつむいて、首の後ろをゆっくりと伸ばす。白くなめらかなその肌はどこか、若くおとなしいユニコーンを思い起こさせた。やさしい瞳に長いまつげ。細い指と小さな手の平で、長く滑らかな毛並みを梳くような仕草で首筋をなぞる。

雨の日に首を傾けて動きを止めている馬たちは、たてがみから雫を滴り落としながら何を想っているのだろうか。

ふと、大切な何かを思い出したかのように首を擡げ、彼女は話を続ける。


「狭い通路に入り込んで、後ろの扉が堅く塞がれて、不安でも小さな一歩ずつでも前に進むしかない。でも行くどころか、私は足を止めてしまう。動けないまま後ろばかり眺めやって、あの時の自信は何だったんだろうって、足踏みしながらはがゆくなるの。後先あれこれ心配せずに流れのまま漂って行こうと決めて、どうしても決めたいときだけ決めることにして、そうやって流れに乗ってきているはずなのに、いつも、必ずどこか思い描いたようにはいかなくなって、いつものように立ち尽くしてしまう。いちばん大事なところが、中途半端なまま。

ここに私はいて、欲しいものも手の中に確かにあって、でも半分だけ。残りの半分は遠くにある。そして私はその遠くにある半分が恋しくて忘れられずに、ずるずるもやもやと足取りをこまねき続けている。…ように、思えるのね。私が決めて進んでいくべき道なんだけど、確かそうな誰かの言葉に全身を委ねて、行くべき方向を指し示してもらいながらぼんやり漂っている時期が、しばらくあってもいいのかな、なんて弱気になったりしながら。」

いつの間にかお互いにそっと、手の中にすっぽり包まれた小さなカップの中を覗き込んでいた。

勢いを失った白く甘い湯気が、そのとろりとした表面からうっすらと立ち上る。裸電球のやわらかい光が一瞬、その表面をきらりと泳いだ。


「今手元になくて、遠くにあって、欲しがっている半分って、何だと思う?」


 手元を見ているようでどこも見ていないその目で、あなたは誰かに向かって問いかけた。


<続>