何かを懐かしがるは

それを簡単には手に入れられない自分を認めること。


何かを欲しがるは

それを手にしていない自分を認めること


皆わたしに

差し出しなさい、そうしたら欲しいあなたをあげるから。

と言う。


そして言われるままに差し出すけれど

進めば進むほど

また「次を差し出しなさい」と言われる。


どこまで行けば、私は欲しい私を得られるの?


それとも


欲しい私を追い求めているゆえ

追い求める私を得られているじゃないかオメデトウ。


ということこそが答え?

そんな馬鹿なことってある?


そろそろ目覚めたい。

満ちたエネルギーで体を動かし欲しい何かを作り上げていく

その課程を、充実感を、達成感を、成長感を、ひとつひとつを楽しみ喜びたい。


今あるすべては

時間を引き延ばしごまかしている

退屈凌ぎのものばかりじゃないか。


そうやって口を狭めつつ微量を無駄に垂れ流し

何かをぼんやりと待っているのか。


何を待つ必要があるのか?


残らず溜まらず、減っていくばかりではないか。


立っている足場を小さくしているだけではないか。


いったい何をしているんだ。

何になりたいんだ。


そして、同じ答えにたどり着く。


何のために、誰と居たいんだ。


苛々してくるのがわかる。

堪え切れずにすべて吐き出したくなる。

誰かにぶつけたところで、解決するわけでもないのに。

気分がすっきりするわけでもないのに。


私が何かをしないことには、どうしようもないんだ。

私が何かをしないことには何も変わらないんだ。

知りたいのは、本当に私に何かを為すことなんて出来るのかということ。


やってみたいか?と聞かれれば、もちろんやってみたい。

試してみないことには何もわからないではないか。

しかしどうしてそれを、買わねば出来ないのか。

買わずには出来ないのか。

どうして私は買ってばかりいるのか。

だって、描くのにその通りにならないじゃないか、と言う。


すると、それは信じていないからだよ、と返って来る。

信じたいと思っているさ。

じゃあまだ届いていないんだよ。足りないんだよ。それだけさ。

もう少しのところまで来ているんだ。

だから苦しいままだっていうのか?結局悪いのは私なのか?


信じられれば叶うはずのことが叶わないのは

どこか疑いを消せなくて、信じられてない私が悪いからなのか?


そうだろうよ、他の誰も悪くはない。悪いのは私なんだろう。

結果を明確に出来ていない私だから明確でない結果を得ている。

求めるものを得ているだけ。

そして求めれば求めるほど、それが今ないということがありありと浮かび上がる。


人は私に対して、いつでも最適な行動をする。

それだけじゃない。物事も私に対して、最適な行動をする。


全ては必然の意思のもとに動いている。


そして大きな渦を巻く中心に立つ私は、そのからくりを掴めず使いこなせない。

ぐるぐる回る流れを追おうとしては目を回し何がなんだかわからなくなる。


遠ざかるほど近づいているんだよ。そうだろう?