当人の抱える本当の痛みになんて 

絶対共鳴なんかできないね。

私は私の知ってる痛みしか知りえないもの。

でも、知りたいと思う気持ちはもっているつもり

わかりたいと思う気持ちはもっているつもり


子供の傷をみるとわたしはなぜか

モモの裏側がいたくなるんだよね。

自分の体の一部だったせいなのかな?


わかったような気になるのは錯覚なのかもしれない。

最近考え方、ポジティブになりすぎて

自分の都合のいいように常に現実を捉えてしまう傾向がある。

それも生きていく為に身に着けた術なんだけどね。


だってさ、私が私を愛してあげなきゃかわいそうじゃん。

私以外に私を知ってる人間なんていないんだから

だれを弁護するよりまず自分を弁護してあげなよ。

でなきゃ、いったい誰を愛せるんだよ。

そんな風に考えられるようになったんだよね。

私が私の状況の中で 精一杯生きてきたことは

私が一番知っているんだからって


神さまを密かにずっと恨んできた私ではあったけど

やっと神さまと和解できた気がする。

もしも私が苦しんだり悲しかったりしたことが

無駄にさえならないんだとしたら

もう、いいよ。ってね

その痛みを味わったことで

誰かの痛みに共感できるんだったら

それでいいよ。 てね

無駄でさえなければ それでいい。


だってさ、逆らえる相手でもないし


神さまなしでどうやって生きていける?

水も空気もただでもらって

言葉や五感を与えられて

家族や友達・・・


私が自分で創り出した物なんてなんにもないんだから

この命を放棄することが唯一の権限だとしても

死ぬ時まで生きてみるさ

だって死ぬのはいつでも出来るはずだから

死んだ気になって 自分つくりかえて生きてみるさ


幸せの基準値をほんの少し下げるだけで

人間は相当楽に生きられることを知った。

それは海外で生きているせいかもしれない。


ここでは、水が出ることが当たり前じゃあないから

電気が通ってることが当たり前じゃないから

命が今日もあったことが当たり前じゃないから

ゴミを捨てないことが当たり前じゃないから

交通ルールを守ることがあたりまえじゃないから


当たり前って何だ?


それは集団で合意した生活する為の知恵なのかもね。

ここではみんな居心地のいい生活よりも自由を優先させる。

誰にも拘束されたくないみたい。

それがここでの 集団で合意した生活する為の知恵 みたい。


生き方なんて一つじゃないんだね。

私は今、結構自分が好き。

本能で暮らす動物みたいな無垢な人たちに囲まれていると

なんかとっても癒されるんだよね。

同じにはなれないけど

みんな私のちっぽけな知恵に感嘆してくれるんだもん。

それは日本では、みんなが所有する常識ってやつなのにね。


なんか得した気分です。


富士山の中に住んでたら

ゴミだらけの道って思うかもしれないけど

富士山から離れたら 

えっ、あの山ってこんなに綺麗だったの?

みたいな・・・



ね?