短編小説 【野菜と肉】 | 天上堂のちょっとそこまで

短編小説 【野菜と肉】

夜の7時を回った頃、築五〇年のアパートの外壁が微かに揺れた。
「ほら、ちゃんと野菜も喰え!」
 光輝はそう言いながら、浩介の皿から肉を取り上げ、野菜と入れ替えていた。その度に浩介は父である光輝を無言で睨み、抵抗していた。
「ちゃんと野菜も喰わんと、強くなれんぞ!」
 腕を捲り、五〇歳とは思えない豪腕を見せつけながら光輝はいつも浩介に言って聞かせた。光輝の言葉は、いつも浩介にとって正しいものであった。

「おらあ!遅れるな!」怒声と共に、竹刀でアスファルトの地面を叩く音が響く。
 五ヘクタールはあるだろうか。野外演習場は今日も数十人の若者達が緑色の軍服を着てトラックを走っている。走る若者達は皆、総重量三〇kg近い装備を着ているため、動きはぎこちない。浩介は彼らの動きを目で追いながら、遅れる者がいないか確認し、いれば即怒声をあげて怒鳴りつけ、彼らの足を早める。
 ふと浩介は空を見上げ、あれから何年だろう、と呟いた。空は常に黒く淀み、たまに稲妻が走る。浩介が小学生の時から、空は常に黒いものであるという認識が常識になっていた。
 演習場にサイレンが鳴る。昼休みを知らせる警笛だ。兵士達は皆サイレンが鳴った途端に走り出し、教官の前で一列に並ぶ。幾度も注意を受け、訓練に励んできた若者達の隊列は、一ミリのずれもなく直線に並んでいる。
「竹崎浩介教官に、敬礼!」列の右端に立つ、ひときわ大きな体格を持った青年が言うと、隊列に並んだ兵士達は右手を高く挙げ、肘から先を折り、手の平を右目にかざすようにして敬礼する。
「よし、午前の訓練はこれまでだ。午後はイチサンマルマルより開始する。解散!」
 浩介がそう言うと兵士達は表情をぴくりともさせずに敬礼を解き、号令をかけた兵士の命令で回れ右をして食堂に向かう。その動きは軍隊蟻にも似て、確実に同じ通路を歩んでいる。
「軍隊蟻、か・・・」浩介の目には、若かりし頃の小学校が浮かんでいた。
 現在、戒厳令レベル3が発令され、日本中の家庭ではテレビが見れないようになっている。水道、電気、ガスの供給も一定量に制限され、夕方の十六時には外を歩く人影が全く無くなる。
 誰も通らない夜道、浩介は一人、家路を急ぐ。

 家に帰り着き、ドアを開けると、いつもの匂いが鼻をついてくる。焼き芋の匂いだ。
 浩介の親である光輝は、浩介に向かって戦時中の苦労話を毎日のように語っていたが、その状態が目の前にある。浩介は三五歳になる体を引きずりながら玄関から中に入った。
「おかえりなさい。あなた」
 妻聖子の目は、三年前の空襲の折に使い物にならなくなった。聖子は当時、夜の九時を回った頃に買い物から帰っていて、自宅が燃えていることに気づき、中に居た息子の敬一を助けるために中に飛び込み、目を焼いた。
 以来、聖子は杖を付き、息子の敬一の手を借りながら場所を移動し、家事に従事している。思えばあの頃からだろうか、と浩介は聖子の右頬を撫でた。
「あなた・・・?」聖子は突然夫に触られた事に驚きながらも、頬を赤く染めた。
「お、す、すまん。つい・・・」
 微かに狼狽しながら浩介は聖子の右頬を撫でるのを止め、リビングまで聖子の手を引いて歩く。
(思えば、あの頃からか。聖子の笑顔が少なくなったのは)
 理不尽な戦火が自宅を焼いた後、世界中を震撼させた日本テロが発覚し、某国は世界中に対し、警告を発した。某国は警告の後、日本に対し自衛隊の強化を迫り、「9条」の撤回を進言した。
(思えば、あの頃からか・・・)

 また、永遠に正される事のない間違った戦いが始まるのか、と浩介は唸り、どうしようもない怒りで手が震える。その震えが聖子にも伝わったのか、聖子は体を震わせ、顔をこわばらせる。と、浩介は、いかん、と自分を律し、仮初めであっても笑顔を作った。

「な・・・」浩介はリビングの中で、思わぬ光景に目を止める。
「何事だ。これは」
 浩介は声を震わせながら、リビングで焼き肉をしている息子の敬一を見て戦慄した。なにも知らずに肉を焼いていた敬一は、父親に気づき、顔をぱあっと明るくさせた。が、すぐさま表情をこわばらせ、持っていた箸を落とし、その場から立ち上がり、後ずさった。
「私が、やりました」聖子の凜とした声が浩介を背から貫く。
「おまえ・・・これが、どういう事か、分かっているのか!?」
「ええ、分かっていますとも。お叱りなら受けます。ですが・・・」
 言い終わる前に、浩介は聖子の頬を平手打ちした。息を乱したまま、髪を振って崩れる聖子の体を浩介は震える目で見た。
「このご時世で、このような・・・このようなはしたないこと」
 浩介の声は地の底からわき上がるように聖子に押し迫った。
「よかれと思ってやりました。だって、今日は・・・」
「黙れ。すぐにこれを片付けろ!」
浩介の怒声が、消え入りそうな聖子の声を押しつぶした。これはいかん、浩介は握り拳を作り、すぐさまカーテンを少し開き、外を伺って誰もいないことを確認する。続けて浩介は聖子の方を振り向こうともせず、淡々と告げる。
「芋でいい。そんなものを食べて何になる」
 その言葉は一定の冷たさで聖子を押し包む。聖子は、目を覆いながら息子の敬一を促して片付け始めた。
「焼き肉など・・・」
「ですけど、貴方。お国を背負って戦うお方がこれだけのものすら食べられなくてなんとしますか。貴方は敵兵を前に、芋だから力が出なかった、とでも言い訳して、討ち死にするおつもりですか」
 聖子の言葉が、父である光輝の言っていた台詞と重なり、浩介はあの頃をふと思い出してしまった。
 光輝は今、その面影すら残さず、遠い戦地で生涯を終えたらしい、という伝令だけは聞いている。父は、日本全国で輸出入が禁じられ、芋だけの生活になってから、常に浩介に言っていた。
「あんなのぁ、ただの見栄っ張りってんだ。ったく、負けた時の言い訳にすりゃならねえってのにな。浩介」
 その言葉にはいつも、国家に対する反逆の意識と、毎日のように討ち死にしていく若者達への哀しみがこもっていた。

 浩介はカーテンを閉めると、リビングの机に座り、聖子に向かって言った。
「そうだな。喰おう。もうもらってしまったのだ。喰わなければ、それこそ大罪というもの。すまなかったな。聖子」
 浩介の口調が柔らかくなると、五歳の敬一は表情をぱっと明るくして、すぐさま焼き肉の準備を始めた。
「さあ、おまえも喰え。またいつ貧血で倒れるやもしれん。そうなったときの言い訳には、したくないだろう?」
 浩介は言いながら席を立ち、台所で肩を震わせる聖子を優しく抱きしめ、食卓へ連れてくる。食卓についた浩介は不意に壁に掛かったポスターを眺めると、今日の日付に目を止めた。
(今日の日付に丸がついている・・・)
 それを感じてか、聖子は一言付け加える。
「今日はあなたの誕生日なのよ。だから、少しだけ贅沢をしようと思ってしまいました。ごめんなさい。あなた」
 浩介はうん、と無言で一度頷くと、野菜をとり、息子の皿に乗せて、一言、父親の言葉を息子に継いだ。浩介は、明日、死地に赴くことが決まっている。

 せめて最後は、と、浩介はひとりごちた。