ヤクルト 伊東昭光さん | プロ野球カードとサイン

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80年代〜90年代のOB選手を中心です。

 

勝ち星泥棒 」と言われた時期もあった、この選手



ヤクルト 伊東昭光 さんです!


高校は、帝京高校。1980年2年次 春の選抜野球大会では、高知商業高校に負け、準優勝に。


その後、社会人野球 本田技研に進み、1985年の日本選手権で初優勝に貢献しました。


そして、その年 ヤクルトスワローズからドラフト1位で指名され、入団します。


1年目からチームの先発ローテーションに入り、2年目は14勝。


3年目の1988年には、怪我をした高野 光投手に代わり、暫定クローザーを任せられました。実は、これが異色に結果を生みます。


それは、


オール救援で、最多勝を獲得 」です。


この年、リーグ優勝した中日ドラゴンズの小野 和幸投手と共に、18勝で獲得をしちゃいました。


救援のため、登板イニング数を稼ぐことはできないため、規定投球回数未到達。


このタイトルを、クローザーポジションで獲得するのは、同リーグ史上初めてでした。


そして、この時期いわれていたのが、「勝ち星泥棒 」でしたw


実際のところ、当時のヤクルトの先発陣がしっかりしていなかったっという部分もあるとは思います。



翌年は、自宅での転倒事故や、前年の登板過多もあり、あまり結果を残せず


1990年は、3試合1先発未勝利に。尻つぼみに結果が残せなくなってしまいました。


1992年に、復活!!


リーグ優勝を飾った試合には、胴上げ投手を経験されました。カムバック賞を獲得します。



1993年も、チームトップの13勝。リーグ優勝と日本シリーズ制覇に貢献をしました。


しかし、試合中に引退をせざる得なくなった怪我が・・・。


1996年東京ドームvsジャイアンツ戦 


吉村 禎章選手のライナー性の打球を、利き腕の右手でブロック。


直後は、一塁へ送球したものの、その後の検査で骨折。


骨折の影響で、握力が低下。その怪我が影響で、1998年に引退を決意されました。



その後は、ヤクルト一筋で、コーチ・編成業務。


現在は、編成グループチーフとして活躍されています。