15キロ歩く | 人生はrhapsody~ひたむきにメロディを奏でる ~

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肺高血圧のこと ぼやいて ほざいて
やがて 笑って受け容れるべく 
騒がしい毎日。

1月17日は私にとって特別な日。

自宅兼事務所を失ったあの大震災。神戸に住んでいた親戚のおばちゃんも圧死した。

あの日以来、私の生活は一変した。
あの日から、一、二年は、がむしゃらに働いた。
仕事場を提供してもらった東大阪市と半年以上たってようやく入れた西宮市の山奥の奥の奥の仮設住宅とを最終電車と始発列車で往復した毎日。眠気に打ち勝つために、ただただ食べて食べていた。食べると眠くなるというのは軽い眠気のとき、本気の眠気には口を常に動かしていないと勝てないのだと知った。
反対に寝るためにはアルコールを一気に飲んだ。
あの頃、かなり心が荒んだ時期があり、夫ハビー(その当時はまだ夫ではなかったが)に言わせると、私の目は常に吊り上っていたそうだ。

そりゃそうだ。

ぷー太郎に近い状態でギョーセーショシをプラプラとしていた程度の私が、突然、私と両親が寝るところを確保するために1千万円以上の借金をせねばならなくなったのだから。

あの頃の無茶が今の病気に繋がっているのだろうか。

それとも、そのあと、実家を再建し、その時、借り入れたお金の連帯保証人になってくれたハビーに申し訳なく結婚し、借り入れも何とか数年後に繰り上げ返済したあと、力が抜けたようにぼーっと過ごした年月がいけなかったのだろうか。

ともかくも今年の1月17日は生まれ変わったぐらいの気持ちで迎えたかった。震災から20年。

思い切って「1.17は忘れない、震災メモリアルウォーク」に参加することにした。

東15キロコース、西宮市役所から神戸人と未来の防災センター前までを歩く。阪神電車で言うと、「西宮」から「岩屋」まで13駅。

20年前、震災死したおばちゃんを確認するために、つぶれた物置から壊れた自転車を引っ張り出し、西宮から長田区まで走ったことを思い出す。あのときは、そこかしこにガスのにおいが充満し、どこもかも真っ直ぐなものは何もない歪んだ景色、ぐにゃりと崩れた新幹線の橋脚や高速道路、地球の核まで見えているのかと思うほど深く割れた地面、頭から血を流しているのに手当もしてもらえていないお婆さん、たたずむ人たち、鳴り止まない救急車の音、自衛隊や報道のヘリコプターの爆音、たくさんの悲しい景色と不安にさせる音を横目に壊れた自転車をこいだ。

今は、道路も真っ直ぐ、街並みも綺麗に戻っている。





息切れしたらいつでも電車やバスに乗ればいい。それでも、最後まで歩きたい。人並みくらいの二本の足と、人並みではないけどそれなりに頑張っている心臓と肺に叱咤激励してゴールまで辿り着いた。

足腰に何とも言えない鈍い痛みが襲ってくるが、清々しく歩けた。今日から私、もっと頑張れそうな気がする。





このこと事前に主治医の先生には言ってない。もう大丈夫だと自分で判断したから。

しかし、夫ハビーは、びびりん!なので、病院に電話したそうだ。

主治医の先生が直接電話に出てくれ、私が15キロ歩くイベントに参加することを聞いて、

「じゅ~ごキロ?じゅ~ごキロ?」と驚かれたらしい。

そのあと、冷静に「肺の平均圧が25までは、生活に制限をかけます。rhapsodyyyさんは、25を切っているので、ほぼ生活に制限をかけることはありませんから、参加しても構わないでしょう。ただし、無理はしないこと。息苦しくなったら、すぐに止めるように。」とおっしゃったらしい。

肺の平均血圧25を境にして、日常生活に制限をかけることを初めて知った。

そして、25を下回っても、普通の人みたいに無理をしてはいけないことも改めて知った。

こうして一歩一歩、自分の体の具合を知ってゆく。それが、病気を受け容れ、病気と共に歩む姿勢に繋がってゆく・・・・はず。