紫煙
また二次創作の小品。今度はハガレンです。ロイ大佐が女性。中佐との不倫話。
-紫煙-
乾いた匂いに刺激されて、ロイはふと我に返った。
ベッドサイドの小さなオイルランプだけを灯し、ヒューズが煙草を吸っている。
ロイに背を向けるように座り、無言でランプの炎を見つめているその顔は、いつもより陰影深く、どこか物憂げに見えた。
「煙草」
つぶやいた声は、少しかすれていた。
「ロイ。起きてたのか」
「煙草。止めたんじゃなかったのか」
暗がりの中に朱く浮かび上がる火を指さす。
「子どもができたから禁煙したって、だいぶ前に言ってたろう」
「家じゃ絶対吸わねえさ」
そう言ってヒューズは、馴れた様子で深く紫煙を吸い込み、吐き出した。
「女房より娘が嫌がる。俺が吸ってなくとも、服に臭いがついてただけで『パパ、くちゃい』って大騒ぎだ。軍法会議所の会議室なんざ、まるで燻製工場だからな。シャワー浴びるまでは抱っこもキスもさせてくれねえ」
なにかを思いつめていたかのような横顔に、ふっと、子煩悩な父親の笑みが浮かんだ。
――ヒューズのこの顔が、私はけして嫌いではない。
ロイは緩慢な仕草で身を起こした。汗の引いた肌に、夜の空気が冷たい。
有能な軍人であり、冷徹な尋問官であり、時に殺人者であることも厭わない男。
家族のもとへ帰れば、良き父であり、良き夫であり。
そして今は――私の男。
私だけの、男。
ヒューズの裸の肩に頬を押し当て、ロイはそのまま静かに身をもたせかける。
「私の匂いを、消すためか」
「……あぁ?」
「煙草。私の残り香を……この部屋でのことをごまかすためなんだろう」
ロイのつぶやきを、ヒューズは即座に鼻先で笑った。
「莫迦言え。イーストシティからセントラルまで戻るのに、どれくらいかかると思ってる」
特急列車を乗り継いでも、ほぼ丸一日。途中には蒸気機関車の煤煙がこもるトンネルも数多くある。互いの肌から移るわずかな匂いなど、残るはずがない。
そしてこの男は、妻に自分の裏切りを悟らせるような真似はけしてしないはずだ。愛する妻に嘘をつくのを心苦しく感じながらも、騙し続けることが妻のためだと信じて。
そしてそれは、ロイも同じだった。
――可愛いエリシア。優しいグレイシア。
幼い頃から家族の情愛を知らずに育ってきたロイにとって、親友が築いた暖かな家庭は、子どもの時に夢見ていた幸せな家族像そのものだった。
――あの幸せを、笑顔を、ぬくもりを、けして壊したいわけじゃない。
けれど。
ヒューズの肩に腕をかける。背中から抱きしめる。広い背中に胸元を押し当て、ふたつの乳房を男の背で押しつぶすように。
背後から身を預けてくるロイの重みを、ヒューズは黙って受けとめた。
――今は、この男が手放せない。
どうしても。誰を騙しても、傷つけても。
許してくれとは言えない、グレイシア。
けれど今は。今だけは。
この男を独占したい。
今だけでいいから。
夜が明けたら、必ず帰すから。家族の待つ、暖かな家庭(ホーム)へ。
だから今は。今だけは。
ヒューズ。おまえは私の男だ。
「――泣くな」
苦く、ヒューズがつぶやいた。
「今さら泣くくらいなら、最初からやらなきゃ良かったろうが」
「……泣いてない」
涙をこらえて嗄れた声で、ロイは答えた。
「煙が、目に滲みたんだ」
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