優しさと諦めの国「日本」それが武士道精神なのか? | Mr.Gの気まぐれ投資コラム

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ねだるな勝ち取れ、さすれば与えられん!

 

「武士道といふは死ぬこととみつけたり」という有名な言葉は、300年ほど前の江戸中期に藩に所属する奉公人の心構えを説いた『葉隠(はがくれ)』というマニュアル本の中の一文で、おおよそ武士道を象徴する切腹や特攻を連想させる自死の概念として誤解されているようだ。

 

私も葉隠の全文を読んだことがなかったので、この言葉の出どころや意味というものをあまり深く考えたことがなかった。

 

日本という国には、「恥の文化」というものがあり、生きるか死ぬかの2択を迫られたときに、生に執着して生き延びようとすることで「生き恥をさらす」結果になるということを過度に恐れる傾向がある。

 

太平洋戦争中の特攻や玉砕、自決時にこの言葉が使われたことも武士道があたかも死を推奨するような誤解に繋がっている原因と思われる。

 

「武士というものは、生き恥を晒さず清く散るべきだ」みたいに間違って理解してしまっている人が多いのはそのためだろう。

 

「ガンダム00」でもミスター・.ブシドーことグラハムが、そんな感じで最終回にこの言葉を使って謎の切腹自殺をしている・・・。

 

実際には、『葉隠』は武士達に死を要求しているのではなく、死の覚悟を不断に持することによって、生死を超えた「自由」の境地に到達し、それによって武士は役人としての職分を落ち度なく全うできる」という意味だとされている。
 

「武士として恥をかかずに生きて抜くためには、いざというときに死ぬ覚悟が不可欠であり、それが武士の教訓である」とも書かれているが、この事から「生き恥を晒さない」という事に優先順位が置かれ、「生き恥を晒すくらいなら死んだ方がマシである」という風に当時の役人は認識したのかもしれない。

 

そして、今の日本の政治家や企業家たちにも、そういった心得がねじれて引き継がれているような気がしてしょうがない。

 

何か不祥事やシキャンダルがあると、すぐ引責辞任してしまうとか、解散総選挙で民意に委ねるとか、過去の不祥事に対する責任の取り方が、このねじれた武士道に基づく切腹的な感じがする。

 

謎の死を遂げられた安倍さんにしても、任期満了で去られた日銀の黒田元総帥に対しても、今はもう誰も責任を問うことも悪口を言う人もいない。

 

そのくせ、ジャニーズ事務所問題に関しては、既に死んでいるジャニーさんの性加害問題をメディアが執拗に叩きまくり、以前はCMなどで「ジャニーズ事務所のタレントを起用できなければ代理店を変えるぞ!」とまで言っていたであろうスポンサー企業もメディアも一気に手を引くといった有様だ。

 

1年前に書いた私の記事「日本から脱出して生き延びる方法」も、武士道的に観れば卑怯で恥さらしな考え方ということになるのかもしれない。

 

「脱出」という言葉はいかにも逃げ出すような卑怯なイメージだが、はたして、危機に直面したときに座して死を待つのが美徳なのか?それとも、危機をいち早く察知して生き延びるチャンス求める姿勢が尊いのか?それが問題だ。

いずれも死を覚悟した上での選択肢であることには違いない。

私には、逃げのびてでも戦い続ける方が本能的だし、人間の生き方としても尊いと思える。

 

日本という国に生きる日本人の大半は、長年に渡って染みついている「恥の文化」に縛られていて、危機というものに対峙せず、醜く足掻くこともしないし、逃げもしない。

 

これはある種の国民的「諦めの境地」であるともいえる。

 

確かに、予期できない大地震や津波、戦争などで全てを失ってしまった場合、最後には何かを恨むか、諦めるしか道はない。

 

パレスチナで起こっているような、恨みや憎しみをエネルギーにひたすらなん百年も戦い続けるよりは、日本人的に諦めてまた一からコツコツと始めるほうが遙かに建設的だとは言えるかもしれない。

 

しかし、そのしぶとさと優しさと、諦め力の強さ故に、国民の大半が台頭する政治家のポピュリズムに翻弄され一億総玉砕の道を歩んでいくとすれば悲しいことだ。

 

日本を出てアメリカの大リーグで活躍する大谷翔平クンも、毎日メディアに登場するスーパーヒーローだが、彼の稼ぎ出す契約金が10年で5億ドル以上になるといわれる破格の収入は日本のGDPにはカウントされないし、日本の税収にもならない。

 

それでも、彼は日本人として我々の誇りであることには違いないし、武士道的にも野球というスポーツに人生の全てをかけているのだから決して外れてはいない気がする。

 

我々日本人に欠けているのは、その動物的な闘争心であり、何かを犠牲にしても自分の目指すものを貪欲に取り込もうという意欲と決意なのかもしれない。

 

そういったギスギスした、闘争やリスクのない、「優しさとある種の諦めに満たされた日本という国」は、それ故に妙に居心地が良く、敢えてそこから抜け出そうとしなくなる気持ちも分からなくはないが、それこそ、生きる為に死を覚悟しても海外に出るのか?それとも、生ぬるい日本の社会でみんなでゆでがエルとして死んでいくのか?武士道的には、どちらが正しいのだろうかと思ってしまう。

 

いずれにしても、日本国民が死を覚悟して何かを選択しなければならないような状況になってきたことは確かだろう。