『天地明察』を素材にして、レポート課題を学生に出してみた。


以下は、勤務先の学生に課したレポート課題と、採点後に口頭で述べた講評、レポート作成に必要な調査の実例をまとめたものである。長文になるので、何回かに分けてアップする。



レポート課題:


 「冲方丁『天地明察』(2009年、角川書店)を読み、科学史的事実と歴史小説としてのフィクションの違いについて、具体例を挙げて歴史家の立場、小説家の立場の両方から考察せよ。さらに、このような大規模メディア(大出版社による刊行物)によって発信される曖昧な情報・知識が社会に浸透した際に想定される影響について考察せよ。」



○課題のポイント


①『天地明察』という小説を具体的な題材としているわけであるから、ここから議論を展開し、可能な限りこの小説に関連する内容でレポート全体をまとめること。


②「科学史的事実」(「史実」としてもよい)と「歴史小説としてのフィクション」の位置付け、定義、を明確にすること。単純に辞書やウィキペディアからの引き写しだけではダメ。そこからこのレポート課題に適合する内容や意味を、自分で考えねばならない。例えば、『天地明察』の内容を見れば分かるとおり、この小説には史実に限らず一般的な用語の間違いも多々あるので、「史実」を拡張して「事実」とした議論をしてもよいだろう。


(例:将棋の用語である「必至」を、囲碁の用語として主人公・渋川に何度も言わせていること。天文学の説明で「緯度」と「経度」を取り違えていること、など。)



③歴史家と小説家の両方の立場から議論をしなければならない。どちらか一方のみに偏った議論はダメ。自分の信念や意見と違う立場に立ったとしても、議論を進められることが重要で、このレポート課題はそのための練習でもある。



④「(史実とフィクションの)違いについて」、考察する「内容」を明確にしなければならない。つまり、「違い」について何をどのような観点から考察するのかは、レポートをまとめる側が問題設定をしなければならない。(この点について課題で曖昧な表現としたのは、このためである。)



⑤課題の後半では「メディア」をキーワードとしている。つまり、この課題は小説を題材としつつ、それがメディアを通じて社会とどのような接点を持ち、影響を与えているのかを問題にしている、と察知する必要がある。従って、この課題は『天地明察』の史実とフィクションの違いを論じるだけの文学論が主題ではない。



⑥課題の後半については、大規模メデイアによる情報発信の実態を何らかの形で明らかにすることが必要である。(情報の発信の仕方の分析、社会に流通しているデータの質や量の調査など、統計的な手法も用いて多角的なアプローチをすること。漠然とした印象論を述べるだけではダメ。)また、「社会に浸透した際に想定される影響」についても事例を挙げるだけでは不充分で、その後の展望や対策、などの議論も必要。



○全体的な講評

・「史実」と「フィクション」は対立するものである、と最初から断定をしているレポートが多かった。同様に、「歴史家はフィクションを語られると不快になる」、という先入観に基づくレポートもかなり見受けられた。後に述べるように、この2つのものは互いに相反するような「対立概念」ではない。人間の活動の産物として世界内に現れ、全く別の基盤の上に立ってはいるが、排除しあうものではなく、むしろ共存している、という理解も必要である。



・「史実とフィクションの違い」という課題設定からどのような内容を展開するかがこのレポート課題のポイントである。しかし大抵のレポートは、インターネットから拾ってきた情報をまとめることで、『天地明察』のここが違う、あそこが違う、といった記述を列挙しているだけであった。(この佐藤研のブログの記事だけを引用して議論しているのは論外。)



順序としては、(1)「史実」と「フィクション」を定義し、(2)それらは何がどのように違うのかを一般的に議論し、(3)『天地明察』ではその議論が具体的にどのような形で当てはまるのかを検討する、という操作は最低限必要だろう。



・課題の後半で話題とした「メディアの影響」という点については、テレビで放映されて話題となった「納豆ダイエット」の事件が事例紹介として非常に多かった。但し、この例は分かりやすいけれども、レポート課題をこれだけでまとめようとなると、何も調べなくても印象論ぐらいは書けてしまうし、平凡で分かりきった結論しか出てこない。こちらが期待していたのは、例えば、出版社の販売戦略、インターネット上での情報の流通の仕方、等々を、統計データをとりつつ議論するような内容である。



○考察のためのヒント


この課題に取り組むにあたり、次のような問題設定や実態調査なども可能だろう。幾つかの例を挙げてみる。第2回目のレポート課題の参考にして欲しい。



(1)『天地明察』についての基礎調査

 ・小説全体を通読すること。(これは当然の作業。)
 ・この小説に関する基本的な書誌データは?
 ・作家は他にどのような作品を書いているか?
 ・これまでこの小説は何部ぐらい売れているのだろう?
 ・小説としての評価は?
 ・レポートの課題を見越して、この小説の巻末にある主要参考文献の何点かを併読し、比較すること。

     ……



(調査例)

・『天地明察』は2009年11月、角川書店の刊行で、角川グループパブリッシングより発売されている。

・初出は『野性時代』の2009年1月号~7月号に掲載されたもので、単行本化にあたり加筆訂正されている。

・第31回吉川英治文学新人賞、2010年度の本屋大賞を受賞し、第143回直木賞の候補となった。

 ……



(2)『天地明察』の周辺事情を調査してみよう

 ・本屋大賞、直木賞、吉川英治文学新人賞とは何か?これらについて調べれば、作品としての評価が分かるのではないか?



・Amazonでの書評はどうなっているだろう?


・インターネット上では『天地明察』のどのような情報が流通しているだろうか?(作家の話題性?/小説自体の評価?/「本屋大賞」をとった作品として?)

・インターネット上で『天地明察』の検索にヒットする件数はどれくらい? (2010年に発表された他の小説は?)

・インターネット上には称賛する情報が圧倒的に多いようだが、批判はないのだろうか?


……


(調査例)

『天地明察』の評価に関して、第31回吉川英治文学新人賞の選考委員の評言①と第143回直木賞の選考コメント②が下記のページに紹介されている。


[再掲にあたっては、評言のみを取り上げさせていただきました。記して御礼申し上げます。/学生諸君へ:レポートとしてまとめるときは、ちゃんと出典を明記することと、さらに大元の情報源である『群像』と『オール讀物』を参照しないとダメだよ。]


http://homepage1.nifty.com/naokiaward/kogun/kogun143UT.htm   (2010.11.27.参照)

①吉川英治文学新人賞について:

浅田次郎 「成功か失敗かはともかく、華麗なる挑戦にはちがいない。しかし現代ふうの会話や文章表現が私にはなじめず、主人公を初めとする実在人物のキャラクターが、どうしても私の抱く彼らの印象と重ならなかった。また、資料は十分に読みこんでいるようだが、歴史好きなら誰もが首をかしげる箇所が多くあって、強く推すことはできなかった。」



伊集院静 「作品の冒頭から主人公の渋川春海の魅力に魅せられた。」「何より素晴らしいのは全篇に流れるユーモアの感覚である。これは修練で体得できるものではない。氏の独自の才能であり、小説にむかうに当たっての精神のゆたかさに他ならない。読んでいて井上ひさしの一連の歴史小説がよみがえった。あらためて歴史小説の可能性を示した点も賞讃されるだろう。」



大沢在昌 「驚きと失望の両方を感じた。驚きは作者の筆力に対してであるが、中盤以降、小説から評伝へと明らかに空気がかわる。たとえば「素晴らしい閃きに満ちた考察を受け取る一方で、春海は、関の孤独を感じた。」などという地の文を読むと、もったいない、そこを物語として読ませてほしいと思うのだ。」



高橋克彦 「私は冲方丁さんの『天地明察』に最高点をつけていたので満足を得た。」「細かな欠点や甘さが指摘されたが、私はなにより作者の「どうしても書かねばならぬ」強い思いに圧倒された。」「この作品を資料を基にした伝記小説として読むのはたぶん正しくなく、私は渋川春海の人生に感銘と興奮を覚えた作者が、その春海の「志」だけを受け継いで紡いだ新たな物語、と見ている。」「この物語は読者に自分の無限の可能性さえ信じさせる。」



宮部みゆき 「(引用者注:「鉄の骨」と共に)自身が所属する社会の階層、組織のなかで、精一杯の力を尽くして〈変革〉を志す、二人の若者を描いています。(引用者中略)格好いいヒーローではなく、ひょろひょろと頼りない二人の若者の頑張りに、私は深く感動しました。」「渋川春海という(洒落じゃなく)渋い人物に目をとめ、算術だ暦制だという高いハードルに臆せず、優しい好意と適度な客観性を保って、春海がやり遂げたことを正しく綴るにはどうすればいいかと考え抜いた冲方さんの努力に感じ入ったということです。」

選評出典:『群像』平成22年/2010年5月号」 (ここまで佐藤が引用)


→必ずしも委員のみんなはベタ褒めではないようだぞ!? (浅田氏と大沢氏の評価は低いなあ。他の3人はほめているが、史実との対比は問題にしていないのかな?伊集院氏はこれを「時代小説」ではなく「歴史小説」として見ているようだし。 …… )


②直木賞について:

浅田次郎 「よほどのベテラン作家でも無理と思える素材に、果敢なる挑戦をしたという点に拍手を送りたい。」「この作品から得たさまざまの収穫を冷静に分析して、将来に役立てていただきたいものである。」


阿刀田高 「ところどころ小説として納得のいかない細部もあって、――もう一作、見てみよう――」「ほかのテーマでどんなふうに書くのか、おおいに期待したい。直木賞の選考にはこういう視点があってよい、というのが私の立場である。」


北方謙三 「饒舌な作品であった。ただ、算学の解説や説明の類いを省くと、小説の構造は意外にシンプルで骨太であり、贅肉をつけてしまった印象を拭い得ない。」「せっかくの力量が空転したという印象が、残念であった。」


林真理子 「若さが時々荒っぽさになったりする。冒頭、話があちこちに飛び、なかなか本題にいかないのもそのひとつ。が、私欲を越えた男たちが心をひとつにする、というテーマは、今の若い人たちがとても好むものだ。さわやかな余韻が心地よい。」


宮城谷昌光 「明かるすぎるといってよい作品である。しかし陰翳が足りない。」


宮部みゆき 「(引用者注:「リアル・シンデレラ」とともに)丸をつけて、選考会に臨みました。」


渡辺淳一 「候補作のなかで、やや興味をそそられたといえば、「天地明察」の視点のユニークさと構成の奔放さだが、やはり頭でつくりだした域を出ていない。」

選評出典:『オール讀物』平成22年/2010年9月号」(ここまで佐藤が引用)



→ このような「プロ」からの評価が公にされているわけだが、インターネット上での情報はどうなっているだろう?…… (これらの内容は影響しているだろうか?)



→ 「天地明察」と検索すると50,000件近くヒットするぞ。大変だなあ。サンプリング調査しないとダメだろうね。100~500件ぐらいは見ないと有意な情報は得られないかも。それから、分析視点も選ばないと…… 例えば、


・これらの情報の出所はどこだろう?
(本屋?出版社?マスコミ?作家のファン?個人?……)

・誰がどのような意図で発信しているだろう?
(販売促進のため?純粋なファンの宣伝?中立的な感想文?……)

・発信の内容は?
(ベタ褒め?批判的?条件付きで評価?中立的?)

・各文学賞の選考コメントが公開される以前と以後で、インターネット上の論調が変わったかどうか?


などを調べると、データになりそうかもしれない。 ……


こんな具合にそれぞれが問題・分析視点を自由に立てながら、考察を進めていくことが望ましい。


[以下、続く]