<<前回からの続き。素朴で初歩的すぎる記載があることは十分承知しているが、学生向けの記述であり、自発的な調査、発展的な考察を学生たちに促す意図が込められている、という文脈を忘れずにご参照いただきたい。>>

 

以下思い付くままに、多少の重複は許しながら、このレポート課題に関わりのありそうな話題を記述していく。



●史実とフィクションについて



 このレポート課題では史実とフィクションの違い、ということにこだわっている。文学や歴史学の専門家の先生方から言わせると非常に素朴すぎるかもしれないが、初心者が調べながらレポートを書くという目的であることを断った上で、出発点としてそれらの定義の例を書いてみよう。(もちろん、自分なりに色々考えて議論することが必要。)



史実

史料という証拠から推論される事柄。史実は必ずしも過去の事柄の全てを表現しているわけではない。ましてや「過去にあった事実」そのものでもない。例えば、ある歴史上の人物を知るための証拠記録として、その人は日記帳をたった一冊しか残さなかったとする。すると、その人物に関する史実は、この日記帳から得られる情報だけとなる。この情報と合理的な推論のみによって、その人物に関する事柄を明らかにしようとするのが、歴史家の立場である。



フィクション

根拠、真偽が確定しなくても作家の信念や想像力によって描かれるリアリティーを伴った言説。上の日記帳を例に取れば、これに書かれていない事柄(その人物の容貌、趣味、人脈……)を「さもありなん」と思わせるように描くことがフィクションとなる。



※(発展的課題1)歴史研究における「合理的な推論」とはどのようなものか?


※(発展的課題2)「リアリティー」とは何で、それを欠いたフィクションはフィクションとして成立するかどうか考察せよ。言い換えれば、「さもありなん」とは絶対に思えないような小説の叙述(「そんなこと絶対にないだろう?」と思わせる想像の産物)はフィクションであろうか。



●参考文献の位置付けを巡って



 上で述べたような史実とフィクションの区分を考えると、歴史小説家は自分の作品世界の中で史実をどのように取り扱えるだろうか。その選択肢は少なくとも3つ(細かく分ければ4つ)あるだろう。



(1)史実をそのまま作品世界に取り込む。


(2)史実と矛盾しない、史実に抵触しない内容をフィクションとして構築する。


(3)史実と矛盾する内容、史実を否定する内容を描く。


ただしこの場合、


(3-a)歴史小説とは違うジャンルの小説として作品世界を構築する


あるいは


(3-b)それでも、時代小説・歴史小説の枠にとどまる作品世界を構築する



 (1)と(2)、(3-a)の選択肢は、恐らく現実世界との間に摩擦を起こさない。このような例を出すと意外に思われるかもしれないが、隆慶一郎の『影武者徳川家康』の設定(徳川家康は関ヶ原の合戦で討ち死にしていた!?)は、「史実に抵触しない」という観点が成り立つのならば、選択肢(2)の場合となる。私の同僚である島内景二が仮定的に言っている通り、隆のこの小説は「剛腕」で「無茶な設定」ということになる(注1)のだが、「ここで徳川家康が殺されていたとしても後の記録の解釈に抵触しない」という作家のインスピレーションを、リアリティーを伴った表現としていかに読者に提示するかだけがここでは問題となるので、このような判断も可能となる。

(注1)島内景二『歴史小説真剣勝負』、新人物往来社、2002年、250頁。


 選択肢(3-a)となる小説は、決して悪意を込めた意味ではなく「荒唐無稽」な作品世界であって構わない。伝奇小説、歴史SF、等々、色々なジャンルと名称がありそうだが、荒唐無稽というフィクションを基盤にして確固とした作品世界が成り立っている小説は多数ある。



 一方、選択肢(3-b)は問題含みであろう。『天地明察』を例にして説明しよう。



 『天地明察』における史実とフィクションの関係を考えるとき、この小説の巻末に参考文献が記載されていることに、まず注目すべきだろう。これは『天地明察』という小説が、作品世界だけで完結しているのではなく、現実世界(歴史研究)との接点も持っていることを表明している。いうなれば、作家は読者に対して(その意図は不明であるものの)作品世界と現実世界の両方を対比する道筋・手がかりを示したことになる。つまり、読者がその内容に疑問を持った場合、この参考文献を見ればいいですよ、というガイドラインを残したことになる。



 既に佐藤研のブログでも指摘したとおり、『天地明察』の本文は、史料(会津日新館志)の一部だけを引用して参考文献の記載と真っ向から反対することを述べていたり、関孝和の著作としては怪しいと言っているもの(規矩要明算法)を取り上げただけではなく、適当に前後の文言とつなげてその意味を書き換えたりしている。



 これは参考文献が述べる史実を「参考」にしたのではなく、それと「矛盾」していたりそれを「否定」するような叙述を載せていることになる。参考文献の著者や読者から、「その根拠は?」と問われても仕方あるまい。一方の参考文献には「X」と書いてあり、もう一方の小説本文には「Xではない」と書いてあるわけだから。両書を参照した者は、その二つの記載を前にしてどのような判断を下すべきなのだろうか。また、作家自身はそのように生真面目な読者に対してどのような説明を用意してそのようなことを行ったのかも気になるところである。



 このように記述(X)の参考文献を明かしておいて、「Xではない」と記述することも、作品世界では「フィクション」として成立するのであろうか。実は、将棋用語「必至」を囲碁用語だと書いてしまうことも、同種の問題として説明できる。囲碁に関心を持つ者、参考文献の事情に通じている人、つまり「当事者」にとってその作品世界での記述は「間違い」以外の何ものにも見えないわけだから。このように2つの世界(現実世界と作品世界)への入り口を提示しておいて、それをブリッジする仕方が不完全であることに根本的な問題が潜んでいるように思われる。



 別の言い方をすれば、「X」の内容が分からない読者にとって、「X」と「Xではない」の真偽の区別はそもそも不可能である。(結局、史実とフィクションを区別せよと言われても、その文脈だけでは不可能であるし、いずれか一方が小説本文に書かれていたとしても、読者はそこを「読み飛ばす」ことになるだろう。「X」という文章を読み飛ばしても内容が分かるということは、これが北方謙三氏が言うところの「贅肉」になってしまっているわけである。)一方、「X」と「Xではない」の真偽が区別できる読者は、その小説に書かれている内容「Xではない」をフィクションとは見なせないだろうし、それ以前に、それは単なる「間違い」としか認知できないものである。



 なぜ作家はこのような選択肢(3-b)を選んだのであろう。次のような見方をすると考えすぎであろうか。(もちろん、誰にでも言論の自由は保障されている。その言説を信じる・信じないも個人の自由であることは認めた上で、ここからのコメントを書く。)世の中には普通に考えたら[「普通に」とは何か?がやはり問題となるが]、信じられないような珍説を信奉している人たちがいる。そのような人たちの一部が次のような自説の宣伝の仕方をしていることも、既に指摘されている。



「意図的な珍説家[ここでは珍妙な古代史の学説を述べる人たちのこと:佐藤注]は、引用したら自説がウソであることが解ってしまう箇所のぎりぎり直前まで引用して、うまいところで切ります。しかし、『魏志』倭人傳のような、誰にでも安価な文庫で手に入れられる史料の記述に姑息なテクニックを弄するのは、体にぴったりのセーターを着た手品師の腹部に隠したハトがモゾモゾ動いているようなものです。
 しかし、入手しにくい史料;珍しい史料;で、これをやられると、うっかり信用して孫引き引用してしまう人たちが出て、信じた人も信じない人も結構迷惑します。」


http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/shosai/netu-menu.html#kouson  
(ALEXの書斎 発熱悪寒の世界 古代史百珍-古代史発熱編 より抜粋/2010.12.02.)



 『天地明察』に引きつけて言うと、小説世界に都合のいいところのギリギリの所まで参考文献から引用しておいて、適当なアレンジを加えてまとめるという操作になる。「佐藤の書いたような参考文献など、どうせ誰も見ないだろう」という姑息な意識があったとしたら残念であるが、そうではないことを願いたい。


今まで指摘しなかった『天地明察』からの実例を挙げると、次のような箇所もある。


以下紹介する『天地明察』の記述[A]は、拙著の記述[B]を都合よくアレンジしたものだと推測される。ちょうど拙著で渋川春海に言及した箇所でもあったので飛び付かれた気持ちは充分に分かるのだが、……



[A]
「芸とは、この場合、城で勤務するための特殊技能を意味する。出仕する者ごとに書類化され、履歴書として管理される。”芸者”とは、上司の求めに応じて、その技能を発揮する者のことで、春海の場合、/一に碁。二に神道。三に朱子学。/四に算術。五に測地。六に暦術。/と書類にある。」(119頁)



[B]
「近世における「芸」とは、今で言うところの「特殊技能」といった語感に近いものであった。幕府の役職において「芸者」といった場合、その職種としては剣術指南、天文方、茶人、碁打ちといった人々が「芸者」の扱いで一括りにされていたことは史料の面からも確認される。日本の暦学史上著名な渋川春海(安井算哲)も、やはり「芸者」として位置付けられていたのである。[注は略]
 「算術」も江戸時代の人々にとってはこのような「芸術」の一つであったことを示す一例を示したい。次の史料は大田南畝(一七四九-一八二三)の長男が出仕する際、その勤務部局に提示した「芸術届」(現代的に言えば履歴書の「学歴」「特技」の欄に該当するだろう)である。[中略]「一 学問朱子学 一 剣術心流 一 手跡山本流 一 柔術渋川流 一 算術関流」」(104-105頁)



 [A]の記述は[B]に述べられている渋川春海と大田南畝の2つの記述をドッキングさせて書かれている。ちなみに、渋川の「履歴書」があったのかどうか、史実としては確認できない。(そもそも「測地」という語は近世のものではない。)南畝の芸術届は18世紀末の産物であるから、それを17世紀の人物にあてはめたことになる。また、江戸時代の書類として「一に……、二に……、三に……」、というような書き方は不自然極まりない。「一つ書き」と言って、「一」を並べる書き方が普通である。(このようなところにもリアリティーの欠如は否めない。)


 このような参考文献の使われ方によって得られた叙述は、作品世界の中ではどのような「フィクション」として説明されるのであろうか。たとえ圧倒的な少数の当事者しかいないとしても、その人たちを不快な気持ちにしてまで書かねばならないフィクションとは一体何なのだろう?(フィクションのふりをした嘘?) 「別にこの記述は要らないんじゃないの?」という評価も含めて、議論してよいだろう。



 『天地明察』の参考文献に関する問題点は、実はもう一点ある。舞台設定の情報源として相当依拠している文献があるのに、それを巻末に明記していないことである。既に佐藤研ブログでも指摘をしたが、渡辺一郎『伊能忠敬の地図をよむ』に記されている情報を『天地明察』はほぼ確実に利用している。もしこれが「主要参考文献」として紹介するに値しないと作家が判断したとすれば、これは著者の渡辺氏に対して失礼極まりないだろう。それほど利用していると言わざるを得ない文献である。



 この事実を知った目で『天地明察』をあらためて見返すと、第3章「北極出地」の部分は、丸々伊能忠敬の測量旅行のエピソードを下敷きにしているわけで、主要参考文献に「伊能忠敬」の文字が現れると読者にもそのことはすぐにばれてしまう。(渋川春海の話にどうして伊能忠敬?という疑問はすぐに浮かぶはずだから。)これを意図的に捨てたのではないかと疑われても仕方の無いような選別の仕方である。つまり、渋川春海が主人公である小説の山場を、無理矢理伊能忠敬のエピソードで埋めてしまうという強引さ(?剛腕?)、これも果たして「フィクション」なのだろうか?(もう一度、フィクションのふりをした嘘?)


 『天地明察』は、一字一句を丹念に読むまじめな読者には間違いをさらけ出すことで失望を与えるし、一方、細部にこだわらず、渋川の成長物語、青春小説としてこれを読み、ストーリー展開の面白ささえあればよいという読者が、もし第3章に感動を覚えたとしても、それが渋川ではなく本当は伊能の事績だったと知れば興醒めであろう。それらのことを作家は意図的にやっていたのか、あるいは読者はそこまで踏み込まないだろうとタカをくくって適当にごまかしていたのか。もしそうだとしたら、参考文献として挙げられた著者の立場としてはあまりにも虚しく、哀しい。


●「条件付き評価」を与えられる小説とは?

 ネット上に数多く記されているこの小説の感想を眺めると、「囲碁や和算や天文のことはよく分からなかったけれども、小説としては面白かった」という趣旨の表現が随分多く書かれている。(この感想を「条件付き評価」と呼んでおこう。)


 しかしよく考えてみると、このような条件付き評価を与えられること自体がこの小説にとっては不名誉なことではないだろうか?


 主人公が主として関わっている事柄(囲碁・天文)が細かく説明されていても、それが少なからぬ読者に伝わっていないという時点で、そこに書かれている言葉は「ムダ」(贅肉)になっているわけであるから。

 逆に、一字一句を丹念に読み込み、作家の紡いだ言葉をとことん理解しようとする(恐らく少数の、そして本来作家が大事にしなければならない)読者は、条件付き評価とは正反対の感想を持つに違いない。


 例えば囲碁を趣味とする読者ならば、上でも述べたように、「必至」という語が囲碁の用語と言われたら、脱力してしまうだろう。


 それでも、「天文学や和算の箇所は詳しく書かれているから、天文学に関する作家の知識は確かに違いない」、とその読者は思うかもしれないが、「緯度と経度を間違えている」、と指摘されていることを知ったとしたら、さてその評価はどうなる事やら。結局、「ディテールの構築はいい加減なわけね」、となってしまうのじゃないかな。



 作家が自らの発する言葉をないがしろにしてしまうことは、作品を大事に読んでくれる読者を無視、ないしは裏切ることになりはしないだろうか。そのうえで「面白ければよい」という態度を作家が前面に押し出したとしたならば、それは単に読者の無知につけ込んで手抜きをしているだけであろう。たとえ読者に気付かれなくとも文章・文意に完全を期すというのが作家のあるべき態度ではないかと思うのだが、このような考え方は古いのだろうか。



 百歩譲って、ある特定の興味関心を持つ読者層だけを相手にする小説ならば、「面白ければよい」という理屈も通るかもしれないが、著名な文学賞にノミネートするからには、建前としても、全ての読者に開かれた小説を目指すという覚悟を作家は持つべきではないかと一読者として思うのである。


<<まだ続く>>