<<前回からの続き。素朴で初歩的すぎる記載があることは十分承知しているが、学生向けの記述であり、自発的な調査、発展的な考察を学生たちに促す意図が込められている、という文脈を忘れずにご参照いただきたい。>>



●歴史家の立場と小説家の立場:史実とフィクション(その2)


大抵の歴史家は、歴史小説家の実践と自らの実践の間に横たわっている相違は心得ている。史料によって語られる事柄だけを史実と見なし、それ以上のことは、推論はするけれども想像を交えない。この原則を踏み外さない限り、歴史家は自らの仕事を定義できる。



一方、小説家はこの原則に縛られていないことを歴史家は心得ている。むしろ史実と史実の間を想像力、フィクションで埋めるのが小説の仕事であると(普通は)理解している。



史料は「点」でしかない。この点と点の間をつなぐ線が作家の想像力で、構築物としてのフィクションである。そのフィクションが現在の史実の体系と矛盾を来さない限り、歴史家はとやかく言うものではない。



唐突なたとえとなるが、数学には「ユークリッド幾何学」と「非ユークリッド幾何学」という異なった幾何学の体系がある。史実とフィクションの関係は、これら2つの幾何学体系のあり方にきわめて類似している。



簡単に言うと、「平行線は交わらない」という世界(空間)のことを研究する幾何学がユークリッド幾何学で、「平行線は存在しない」という世界(空間)を扱うのが非ユークリッド幾何学(の一つ)である。(注2)



(注2)

より正確に言うと、「ある直線(l)と、その上にない点を通る直線(m)のうち、lと平行な直線は1本しかない」空間の幾何学がユークリッド幾何学で、我々人類が直感的、常識的に前提としているものである。一方、「ある直線(l)と、その上にない点を通る直線(m)のうち、lと平行な直線は存在しない」空間の幾何学(楕円幾何)と、「ある直線(l)と、その上にない点を通る直線(m)のうち、lと平行な直線は無数に存在する」空間の幾何学(双曲線幾何)とが非ユークリッド幾何学の2つの型としてある。非ユークリッド幾何学の簡単な入門書としては、寺阪英孝『非ユークリッド幾何の世界』(講談社ブルーバックス、1977年)が読みやすい。



どのように直線を引っ張っても「平行線が存在しない空間」?、それは一体どういう世界だろう?最初にこんな疑問が出てくるに違いない。しかし、数学の世界では、最初に設定する前提・約束事(公理)から出発して論理的に命題(定理)の体系を組み立て、その中に矛盾が生じない限り、この理論体系は「問題ない」と考える。非ユークリッド幾何学も、最初の前提は常識とは全く異なっているし、突拍子もないけれども、そういうものだと認めてしまえば、その後に導かれる数学の結果に矛盾は生じない。



誤解してはいけない点は、ユークリッド幾何学も非ユークリッド幾何学も、ともに数学の体系としては同等な地位にあることで、一方が正しくて一方は間違っているという関係にはないことである。(一方の幾何学の常識に慣れてしまうと、もう一方の幾何学の世界は異常に見えるけれども、それは別の問題である。)ましてや、一方がもう一方を排除したり、否定するようなものでもない。数学という世界の中でユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学という2つの体系は、お互いの境界は明確で、なおかつ、数学の理論としては同等に共存している。(科学史ではよく「共約不能」、「通約不可能性」という語を使うけれども、ここでその言い方はよくあてはまる。)



合理的推論に基づいて史料と史料の関係性を明らかにして再構築した過去(と見なせるもの)が「史実」だとすれば、史料と想像力を用いて構築され、リアリティーを与えられたものが(歴史小説における)「フィクション」であろう。



史実とフィクションの両者を構築、探究する営み(歴史研究と小説執筆)は全く行動原理が異なっている。史実(研究)の側からするとフィクション(小説)の世界は信じられないような作品世界を描いている。一方、フィクションの側からすると、史実の世界はあまりにも窮屈なように見える。しかし、この様な状況であっても、一方がもう一方を否定することはない。(排反しない、ということである。)研究には研究の価値があり、小説には小説の価値がある。2つの価値体系は人間の世界の中で共存している。まさにユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の間にあるような関係である。歴史小説と史実のどちらか一方が一方を否定してしまったら、それは人間の文化そのものを自分で否定してしまうことになるだろう。史実は将来の人間が間違いを犯さないように参考事例の記録を残すという意味もあって重要だし、フィクションは人間にイノベーションのきっかけを与えてくれるときもある。史実もフィクションも、人類が営々と培ってきた大事な文化の構成要素なのである。



ところが、再び幾何学体系のたとえを用いると、ユークリッド幾何学で言うところの「直線」と非ユークリッド幾何学で言うところの「直線」は、これらをお互いの世界に生きる生物が見ると全く異なった姿になっている。(ユークリッド幾何学の世界に生きる生物が、非ユークリッド幾何学の世界にある直線を見ると、グニャリと曲がっていたり、単なる線分のようにも見える。逆も同じ。)つまり、両方の世界で同じ「直線」と言っているものを、互いに別の世界にそのまま持ち込むと、それぞれの世界では持ち込まれたものを「直線」とは絶対に思えない。矛盾が露呈したり、あるいは間違っていることになる。



この「直線」に当たるものの実例として『天地明察』で語られた「必至」の語の用法を取り上げてみよう。史実(事実)の世界では、何をどう間違えようが「必至」は将棋の用語以外、何物でもない。これに何のフィクション的要素も加えないまま、「平伏し、「必至!」叫ぶように応えた。反射的に口から出たそれが、碁の語彙でもあると遅れて気づいた。」(『天地明察』、294頁)と小説世界で作家が語ったとすると、これは上の「直線」のような実例となる。そこで、私が思いついたものだからあまり上手いフィクションではないけれども、



「『天地明察』がベストセラーとなり、そこでの用法が普及したことで、2011年以降、囲碁の世界でも最終局面で「必至!」と叫ぶことが流行するようになった」


とでも書けば、近未来を想定したフィクションの世界で「必至」の語は囲碁用語(かけ声?)として、まあ、ぎごちないけれども成立するだろう。



それでは、より高度な問題として、前回紹介した渋川春海の「履歴書設定」(「渋川春海は芸者であった」+「大田南畝の書いた履歴書の存在」という史実[B]から、小説の記述[A]が生成されたこと)は作家によって史実に「フィクション」的操作が加えられたと見なして良いであろうか。



結論は、あたかもフィクションであるかのように見えて、実は、史実と史実の間の接合の仕方に矛盾を内包したまま作品世界にそれを持ち込もうとしたため、そのことでリアリティーを喚起せず、フィクション構築としては失敗だと私は思う。(全く違った時代と人物の事柄を同時代の一つの事柄としている「おかしさ」は否定できない。)さらにそのうえ、適当に史実を切り貼りしてつなげただけ、という参考文献著者からの不快感もこのように表明されてしまったわけであるから、これは二重の意味での失敗であろう。



既に述べたとおり、作家は典拠とした参考文献を明記しているわけであるから、遅かれ早かれ、そのからくり(史実と史実の接合)は明らかになる。そのときに接合の仕方がおかしい場合、これはまさしく先ほどの幾何学の体系における「直線」の認識の仕方の例に他ならない。結局、史実と史実を接合した説明を作品世界に持ち込んだとしても、矛盾や間違いがあればそれはそのまま、作品世界の中に残ってしまうのである。とりわけ、作家本人の誘導(参考文献の明記)によって史実世界と作品世界の両方を比較対照して見ることができるようになってしまった読者は、そこにリアリティーを欠いた矛盾・違和感を見いだすことになる。そもそも、史実と史実を適当につなげることでフィクションは生成するという発想自体が貧困ではないだろうか。



別の言い方をすれば、歴史小説において、史実世界からその作品世界へ「何か」(言葉、説明、概念、……)を持ち込むときに翻訳装置、変換装置として機能するものが「リアリティー」の付与、ではないだろうか。ユークリッド幾何学の「直線」という考えは、非ユークリッド幾何学で同じ言葉を使うと、ユークリッド幾何学の常識としては「曲がった」ものとして見えてしまうが、それでいいのだ、そういうものなのだ、と数学の世界を理解する者は納得する。「それでいいのだ、そういうものなのだ」(さもありなん)と思わせる作用が、歴史小説ではリアリティーの付与となる。



では逆に、作品世界から何らかのフィクションを史実世界に持ち込むことは可能であろうか?そしてこの場合の翻訳装置、変換装置は何になるだろうか?学問研究の世界で全般的に通用する用語で言えば、それは「仮説」というものになるだろう。「この小説では○○ということが述べられているが、これを仮説として、史実を再検討することで検証を試みよう」という言い方をして研究・検証を実践すれば、特に問題の無い学問研究のオーソドックスなスタイルになる。(それを実践するかどうかは研究者本人の気持ち次第である。)



さて、以上の面倒な問題について、根本的で安直な問題回避法があるように見える。参考文献を明記せず、隠してさえしまえば、そのからくり(史実と史実の接合)は読者に分からないわけであるから、最初からそうすればよいだろう。このような発想である。しかしこれを実践してしまったら、やはり問題だろう。幾つか実例を挙げたことで明確かと思うが、『天地明察』の場合、相当程度の叙述・説明を参考文献から借用、援用している。これでもし、参考にされた文献の著者が、後から何らかの経緯で自分の文章が利用されていたことを知ったとしたら、釈然としないであろうし、極端な場合は盗作・流用・著作権侵害の問題にまで発展するだろう。これは史実とフィクションというような問題どころではない。その次元を超越して社会的な問題に変質してしまう。



このような危険性を孕んでいるのに、『天地明察』では『伊能忠敬の地図をよむ』という文献を明記していないわけであるから、作家のその不徹底な態度を何度も取り上げて批判してしまうわけである。



(発展的課題3)「歴史の小説」と「小説の歴史」はどこがどのように違うか。さらに、「小説の歴史を題材とした歴史の小説」の筋書きを構想せよ。



(発展的課題4)「フィクション」と「抽象」は何が違うだろうか?絵画の領域には「写実的」(具象的)と「抽象的」という区分がありそうだが、小説の場合、「写実的小説」という言い方は可能でも、「抽象的小説」という言い方はあまり聞いたことがない。この違いは何に由来するものだろう?


<<まだまだ続く。次回は「社会への影響」について。>>