また、偶然の話題の続き。


(3)和算史のネタ

17年も大昔に、修士論文を準備していたとき、折角和算史をやるのだから関孝和をテーマに採りあげて、それでまとめてみようと思い立った。


となると、今知られている関の著作というものを一通りあたってみなければダメだろうなあと思って、有名な刊本である『発微算法』(1674年)から取りかかった。一字一句をバカ正直に解読しながら読んでいった。ところが、半年程読み進めていくとどうもおかしいことに気が付いた。


「関先生、間違えてるんじゃないの?この解答……」


という箇所が出てきたものだから、さあ大変。他の版本も調べてみたところ、またビックリ。


「こちらの版は直されている!? しかも版面が異様に不自然……」


半丁あたりの文字数が一定のところに、訂正版では無理矢理改訂分の文字を刻みこんでいるので、汚い紙面のデザインになっていた。


このあたりの事情を、当時はまだ誰も気が付いていなかったので、早速修士論文はそれでまとめ、それが学会へのデビュー作となった。


これ以後、和算史そのものの史料論がいまだ展開途上であることを痛切に反省し、数学の内容そのものというよりも、「この史料は一体どういう姿を取っているか」、「どこにどんな史料があるのか」という方面での基礎作業(史料論)を徹底することにした。科学史という地味な学問の中でも、さらに地味の極地へ足を突っ込んでしまったことになる。


不思議なもので、そんな地味な分野に徹した途端に後から後から新しい史料が目の前に現れて、それが拙著『近世日本数学史』になってしまったという結末。さらにこれが『天地明察』にネタを提供したわけだから、関先生が300年ぐらい前に間違いをしてくれたことがきっかけで、巡り巡って21世紀の出版業界にも影響を与えたということになる。


この300年間を振り返ってみると面白いことに、関の没後、100年目ごとの節目に立ち会った和算関係者はどうでもよいことで大喧嘩をしていることが分かる。


関孝和没後、最初の100年目、この頃は会田安明が現れて関流の藤田貞資に論争を仕掛けている。ケンカそのものはどうでもいい内容であった。


次の100年目、関没後200周年の頃は明治時代になっていて、日露戦争の直後である。この頃、和算史家として知られる三上義夫が研究活動を開始し、大正年間になると彼は何人かの学者とこれまた和算の解釈を巡って大喧嘩をしている。遠藤利貞、林鶴一、長沢規矩也といった面々とである。


そして300年目の2008年前後。後世の歴史家にネタを提供する目論みも多少あるけれども、これまたどうでもいいことで一部の世間を当事者として騒がせてしまった。歴史を繰り返そうと思えば繰り返せるものなのだということを、実感した次第。


さて400周年には何が起きるだろう。それまで日本の科学史があれば、の話であるけれども。