先週の水・木曜は1年ぶりの宮城県図書館調査に行ってきた。


宮城県図書館は、アクセスに難点があることを除けば、非常に使い心地のよい図書館である。いつもならば東北自動車道経由でドライブしながら仙台に行くのであるが、今回はさすがに新幹線で仙台に入り、地下鉄で泉中央駅まで乗り継いで、そこからタクシーで県の図書館にたどり着いた。大宮から仙台までの乗車時間がはやてならばノンストップで約1時間15分、仙台駅から図書館までが約40分。新幹線が便利になった分、同じ仙台市内にある図書館までのアクセスの不便さは際立ってしまう。バブル期によくあった、文化施設の郊外移転計画のあおりをまともに受けてしまったというと言い過ぎかもしれないが。


仙台二高に通っていた頃、まだこの図書館は榴ヶ岡公園の傍らにあった。放課後、ぶらぶらと歩いてこの図書館に通って受験勉強をしていたのも、もうかれこれ20年以上も昔の話。まさかこの図書館に所蔵されている和算史料が、将来の自分のライフワークのネタになるものとは露にも思っていなかった。多分日本でも、個人コレクションとしては一番巨大なものの一つである和算書コレクション、『関算四伝書』が宮城県図書館の書庫にひっそりと納まっていたのだが、これの影印を何とか先日、完成して上梓することができた。(東アジア数学史研究会編『関流和算書大成 関算四伝書』全11巻、勉誠出版。)507冊もの和算書、漢籍中国数学書の迫力は並大抵のものではない。とはいえ、この完成にこぎつけるまでには10年がかりの仕事となったが、終わってしまえば何ということもないような気持ちである。『関算四伝書』の編者、戸板保佑の志を少しだけでも現代によみがえらせることができたかな、という感じが伝わればそれだけで充分だろう。これの調査研究のために、何百万もの科研費という税金を投入させていただいたわけであるが、無事に影印としてまとめられたことで、責務を果たせたと安堵すると共に、こんな形であっても郷土には恩返しの真似事ぐらいはできたかもしれない。


さて、今回の調査で気になったのは、幕末仙台藩に設置された「講武所」。今の仙台市の中で言えば、澱橋の北側たもとからドミニコ学院の方に向かってちょっと歩いたところ、角五郎のあたりに、洋式軍備の教育施設としてこの講武所は設けられたのだが、その絵図面と旧蔵書の何点かを今回の調査で確認することができた。この辺り一帯、今では公務員宿舎が建ち並んでいるし、広瀬川の川原は公園化されてのどかな景色が続いている。150年ほど前に洋式の大砲が轟音をとどろかせていたなど、全く想像すらできない。これまた二高時代、この河原を部活の練習で走り回っていたことを思い出すにつけ、不思議な感覚に襲われる。


今回の調査で目星を付けていた講武所の蔵書印を有する写本の一つは、よく見ると真田氏の旧蔵書でもあった。以前話題にした真田喜平太が持っていた、砲術関連写本であった。


この真田氏、長い歴史を振り返ってみると、皮肉というべきか、運命の巡り合わせというべきか、一族が敵味方に分かれて戦ったことが二度ばかりあった。


最初は有名な大坂の陣。真田信之・幸村兄弟が徳川・豊臣の両軍に別れて戦った。徳川方についた兄信之の系統は所領を安堵されるも、後に上田から信濃松代藩に移封され、維新期までこの地を領する。


二度目の対決は戊辰戦争である。真田幸村の子孫・真田喜平太は、仙台藩の参政、砲術家として戊辰戦役の前線に立った。一方、本家の松代藩真田家は官軍に与して東北地方に部隊を送る。結果は周知の通り、仙台藩の大敗。


幸村とその子孫は、二度の一族対決ともに、負け組についてしまったんだなあ……


そんなことをつらつらと思いながら、今回は2600枚ほどの史料写真を撮って帰路についた。



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宮城県図書館(2005年撮影)