今、東日本大震災の被災地では、復旧に向けた懸命の努力が続いている。


こんなとき、過去に経験した災害に関する情報・記録・回顧録なども何かの参考になるのではないかと考え、以下、数回に分けて抄録することとした。災害情報の詳細については宮城県図書館のみやぎ資料室などに行けばいくらでも調べられるはずであるが、今回は火急のこととて、手元にある資料だけを見てまとめる。いずれ、周辺資料も含めてまとめ直したい。


これから紹介する資料は『宮城県人一百号記念 宮城県の全貌』(宮城県人社、1933年)に収められたエッセーの幾つかである。この『宮城県人』は郷土の顕彰と振興を目指した雑誌で、大正14年(1925)の創刊で、昭和8年(1933)に100号の刊行を達成している。


この間に起きた宮城県の自然災害として知られるのは、明治末から大正期にかけて断続的に発生した県内各地の大規模水害、そして昭和8年3月に発生した地震による三陸沿岸部の津波である。この記念号には2人の知事経験者による治水策の回顧録、そして日本赤十字社の実施した津波被災者への救急対応の様子がエッセーとして収められている。また、このような状況下での宮城県の産業や民俗の概況なども紹介されている。80年ほど前の宮城県を語る歴史資料として、幾つかを採録する。(採録にあたっては、明確な誤植をなおすとともに、歴史的仮名遣いを現代的仮名遣いに、漢字の旧字体を新字体に改めるなどした。)


最初に、大正期に宮城県知事を務めた2人(俵孫一・濱田恒之助)による回顧録(談話筆記)を掲げる。コロコロと各地を転任させられる内務官僚としての戦前の知事であったが、その短い任期の中で彼らがどのような方針を持って治水に臨んだのかが、興味深い。


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宮城県の治水事業 在職中を想いて


元宮城県知事 俵孫一


宮城県に赴任したのは大正3年4月だから、大部前のことである。恰度大隈内閣の成立したときで、私は三重県知事をやって居た。例によって地方長官の更迭はあったが、僅か1年2 3ヶ月しか経過せぬ三重県知事がよもや変ろうとは思っていなかった。ところへ内務大臣より至急上京せよとの電信を受取ったのだが、従来、転任の際でも、本人の意志を聞いたことがなかったのだから、恐らく他の用事だろうと思って汽車に乗込んだ。名古屋の新聞を見ると、宮城県転任と出ているので、初めて電信の用件が明になった。で其侭上京内務省へ出ると、転任事情の話が出て、宮城県では目下県会開会中であるから、未発表なのだが直に赴任せよとの話で、私には実に迷惑千万な話で、三重が僅か一年余で何等治績もあげぬうち、他への転任は困ると言った。兎に角宮城県に行け、県会の開会中行ってくれと躊躇を許さぬ、其内に、新聞には、開会中の県会では議案が即決可決されたと報じて来る始末で、其侭仙台に行ったら既に県会は閉会されている。でも未だ県会議員が全部仙台に居ったので、正副議長初め一同が面会を求めて来た。県会の問題というのは、大正2年の水害の跡始末であって、前知事が苦心を重ねて計画した治水議案であった。長官の更迭となったが、即決可決した議案を後任長官はどうするつもりであるかとの問であった。


甚だ突然で返答の仕様がない。開会中だから早く行けとの命で、此の通り旅装のまま来たのであるから、事情も何も少しもわからんから、とても即答などは出来ぬ、よく調査研究の上適当の処置を講ずることとしたのであった。いろいろと模様を聞いて、それから正式に赴任したのであるが、其可決案なるものを調べると、如何にしても施行出来そうじゃない。治水区域も広い、各方面に跨ったもので、県会議員や市郡の有力者たちが案出して満場一致可決したもので、換言すれば県民の等しく希望したものでもあるのだが、其費用だけ見ても700万円ばかりかかる。其当時の県の歳費はというと80万円程度のものである。更に当時県には、前年の東北北海道の大不作や県電の負債等が、約500万円もあった状態なのである。今回の治水、水利の700万円を加えると1200万円の負債となり、利子年5万としても年々60万円の利払をしなければならぬということになり、宮城県の財政ではチト難しいことである。当面の水害は大問題で、再びかかることのない様に計画を立てねばならぬ、それも県財政と相調和して許す範囲内でなければ、実際的なものではない。前知事森正隆君はなかなかの熱心家でよく計画のたつ人であることは諸君の知る通りである。が、此厖大な計画が宮城県に於て実行せらるるというのは、寧ろ不思議なことと思う。現在県の財政と調和するには何か別の腹案でもあってのことなら別であったが、後任者たる私は、只敬意を表したのみで其侭の踏襲実行は出来かねた。


何にしても大水害のあとなので、急を要することでもあり、根本的な方策をたてねばならぬは論を俟ぬことなのだが、踏襲案を実行すれば、歳費80万円そこそこのところで、年々の県債利子支払だけでも60万円になってしまう。他の土木事業や、教育、産業等は如何にするか、無理を少くするにはどうしても別個の案が必要なので、治水問題の内容検討や、研究に苦心してみた。全般的な平等の根本解決策も必要だが、此際、被害高と地域とを調べて、緩急等差をつける必要ありと認めた。即ち江合、鳴瀬の堤防のカサアゲや、各部に亘る方々の長距離堤防の築造計画は根本的対策に非るものと信じた。大体、年々水害を被るのは、水害地上流の水源地荒廃の結果、水量蓄積の森林なく、雨の際皆直流する為であり、いづれの地方も規を同じくしていて、川床が年々高まり、之が防止策として、堤防を高くしていくというのがお定まりになっている。つまり高さの競争をつづけるのが治水計画となって居った。岐阜や木曽あたりの治水策は、悪例の最も尢なるもので、川底よりも水田の方が余程低く、堤防を廻した沼みたいになっている所謂輪中である。堤防が高くなる程水田が益々川底より低くなる。之が根本的対策でないことは言わずして瞭然たるものである。


其処で、私は、内務省とよく打合せ沖野技監の意見も聞き、当時の土木課長には気の毒だったが更迭して、内務省に依頼して、知事と同俸給で土木課長(中村悌一郎氏)を招聘することとした。要は、土木技師の適材と否とにありと信じたからである。内務技監或は一瀬仙台土木出張所長等とよく相談し研究して、前述の一案を得、江合、鳴瀬両河流の同方向に流れるところから、堤防を短縮して経費を節約し、合流せしむる一方の川に充分力を注ぎ大崎五郡の平野の水害防止を第一手段とし、そして、他の被害少ないところは一切後まわしとしたのであった。それでも経費は500万余円位かかるので独立ではやれぬ有様故、大いに財源捻出法を研究した。


内務案河川の第一期第二期の分類は、大小によるもので、第一期河川は国庫より8割、地元2割負担して改修を施すもので、北上川は第一期として工事中であった。第一期終了後第二期河川に着手し、当該府県で施行することになって居った。北上の工事はなかなか進行しない、江合、鳴瀬は幸い第二期河川に入ってるので、其工事を繰上げて着工し、経費の負担をも内務省に乞うた。


水害は、内務の分類にはおかまいなしにやって来る。川小なればとて被害少きに非ずで、治水工事又其施行順序も、川の大小を以って計るべからずとなして内務省に申請書を提出し、宮城県の水の惨害甚しく、根本治水策として、江合、鳴瀬第二期河川たりとも連年の状勢に鑑み捨ておくに忍びず、又水害凶作の財政を考慮し、特に此際、国庫より5割の支出して着工せしめよと説く。250万円の国庫負担なくしては、再々の水害であり、県独力にては出来ぬことであり、又前年の大水害を繰返して、不幸を見るに忍びずとなして、意見書の意気鋭いものがあった。時に大隈総理兼任を解かれて大浦内相、下岡次官、小橋(一太)土木局長の顔触れで、皆事情を諒解してくれて、半額の250万円は国庫負担として其案にて施行し得ることとなった。土木会議も之を認め、県会も承認することとなったが、其年4月前議案が満場一致可決されたのに、此新案に代ゆることは頗る難色があり、又気の毒なことであったが、其年の通常県会の時、他の議案と共に提出して、自ら説明にあたり、多々質問にも答え、少数の反対者等もあったが、(当時の県会議長小野平一郎氏)可決されたものであった。内務省でも其翌年即ち4年度より、江合、鳴瀬合流の工事施工の手順を決めてくれたのであった。かくして此根本治水案が着手されたのであったが、8月突如北海道長官に転任を命ぜられ、治水状況を見ることなくして去ったのであった。


三重より宮城、北海道へと短期間歩ったわけだが、少くも数年在任してこそ、使命を果し、治績も挙げ得べきものを、1年5ヶ月の在任の記録を残すのみであることは慚愧に堪えぬ。


大正2年等の大水害の跡始末の経緯を思い出して、よかれあしかれ、感慨無量のものがある。自分としては、当時、至誠をもって自分の全能力を尽したことのみが、想いやらるるのみだ。(文責在記者)


◎『宮城県の全貌』(13-17頁)より採録。


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宮城県治の回顧 治水問題其他等々



元宮城県知事 濱田恒之助


大正4年8月赴任早々の重大問題は、何と言っても治水事業が緊急最大の問題であった。之は、森知事が辞めるときの置土産が、県会最終日に可決され、其翌日俵知事が赴任し、前案の不充分なるものを認めて、特に敕任倉重技師を聘して根本方策をたつべく、流量其他各種の調査を開始したのであった。


私の行ったときは、いかにも窮状歴然たるもので、早速何とか処置せねばならぬと思った。小被害地の応急処置がついて居ったので、早速、前任者の調査をついで、根本策を研究した。調べると、


明治27年-同36年までの10年間で年平均120万円の被害
明治37年-大正2年間年々386万円の被害


という様な統計であるので、姑息な方法では、何もならぬことが肯かれるので、根本的に充分やらねばならぬと決心した。俵知事より引継いだ調査ながら、10ヶ月間を要して、大正5年5月にやっと根本案が出来上って、当時あった治水調査会に諮った。第1案は1200万円を要するもので、第三案の小規模のものでも、5、600万円を要するものであった。私は勿論第1案を支持した。調査会でも第1案結構なりと可決したのが、5月2日であった。


主なるものは、やはり、江合、鳴瀬の合流で、574万円を計上した。次が、白石川の73万円が大きなもので、他は、全県下に亘った小さなものだったり、応急工事的のものであった。


白石川は、鉄橋も架してあり、鉄道省でも困って居った問題で、同川工事費73万円のうち45万円は、鉄道省(大正6年度)から出して貰えたので、白石川は割に早く片付いた。


江合、鳴瀬は困難な問題であった。


第一に国庫補助の規定がない。河川法は改修には補助して居って、第1期河川以外には少しも出していない。北上、利根の如きでなければ、先例なしとて補助はされない。で、江合、鳴瀬にも河川法を適用させなくては順序が立たぬ。併し実際に於て水害の度に堤防工事に補助するなどは、川床の高くなるのと競争する様なもので全く無駄と言いたいもので、根本策ではない。それで、河川改良に大いに補助せよと内務省に迫った。同省では、20年来先例なしとてなかなか聴入れなかった。併し、水害に悩まされ通しの宮城県の民力では、とても独力でやれるものでもないので、土木局長、或は久保田次官等に会って、極力談じ込んだ。無理な注文だから引込ろなどとも言われたが、他に道がないので、時の内務大臣一木喜徳郎氏に持込んだ。大臣は、最もだと認めてくれ改修の如き姑息手段は寧ろ地方民に不為だと了解してくれ省議決定、茲で、河川法を適用して、半額の284万円の補助が出ることとなった。先第1の先例を作ったわけで、栃木などうまく恩恵に浴した始末であった。

測量、機械購入等急速にもいかず、10ヶ年計画であったが、大蔵省では、20ヶ年にせよという工合で、交渉の結果15年というのを12ヶ年継続でやることとなり、5年末の通常議会に提案、可決され、大正6年4月28日、水野内務次官臨席のもとに起工地鎮祭が行われたのであった。


名取川のみは計画通り、他阿武隈の一部、迫川等は補助もなかったので縮少案のもとに施行されたのであった。


総工費は739万円、うち国庫補助が329万円、他、関係地元寄付35万円と県費374万円とを要し、江合、鳴瀬合流に569万円、白石川に73万円の大部分費し、他は全県下の当面治水費となったわけだ。


在任中、大部分出来上ったが、江合、鳴瀬は着々進捗中であったが、8年4月18日転任して去ったあと、森知事は江合、鳴瀬の計画をもって不完全なるものとして、工事は中止された。県会の同意を得たものであったが、内務省では、よりよき計画ならとも角、改悪では賛成し難しとて結局否決され、森知事在任中工事は中止のままだったが、次の力石知事は工事開始した。


江合、鳴瀬合流の一目的として品井沼の水害も除かれ同地有力家の鎌田三之助君から、未だに年々通信を貰い此の治水事業に附して水源地保護を目的に、防砂工事も約60万円計上して併せ施行したのであったが、近年宮城県にあまり水害のないのは、此時の根本策が幾分役に立ったかと思うと全く喜しい。


産業政策の第1案として、塩釜の築港と相俟って仙・塩連絡のため電鉄計画をたてた。鉄道があるから、余計なことだと反対もあったが、煤煙を被り、2・3時毎発着のユッタリしたものでは、時代的ならずとして、県費補助の計画をしたのであった。此電鉄は一面松島を大いに紹介したいがためであった。

宮城県からは、北海道への移住者が非常に多いのに、県の物資があまり行ってない、寧ろ先方より移入するものが多いので、釧路、室蘭等への定期航路に補助を与え年50回位往復する様にし、7年1月新大勢丸を運航せしめ、県物資の移出に努めた。


塩釜築港も、県の方に委任をうけ、2、3千噸の船舶の出入に便し、更に外港の築港計画をたて、米国航路の寄航地たらしめんとの案もあったが、間もなく転任したのであった。


陸羽線完成と塩釜港連絡に対し経済調査会を開き(5年7月)、翌年戦後経営実行員2千余名委嘱等いろいろ思い出されるが、今は昔話となった。


教育方面では、予習教育を除去すべく、全廃に努めたが、制限して1週2時間とし、中等校の入学試験は小学校の教課事項中より出題すべき様にし、従来の三課目を増して試験せしめることとしたが、相当やかましい問題であった。実業補修教育は、微々たる有様で徹底していなかったので、義務教育同様、商業、農業と分ち授ける様にしたのも頃であった(6年12月訓令が出ている)。篤行者の表彰、慰安法の講せられたのも此の頃で、同時に、幼児監護規則なども設けられた。これは、凶作、水害等で、農村などでは、幼児を呉れてやるとか売るとかした、それで駐在所などで之を監護したもので、国中では初めての試みであったろう。


米騒動については面白いことがあった。7年8月、鉄砲町の吉田某邸が焼打されたので、人力車を駈って単身視察に赴いて、帰途前後処置を講ずるため、警察に寄って戸田署長と懇談してるところへ、各社記者がやってきて署長と面談、話があまり永くなるので、帰って貰うこと要求したら、翌日の新聞では、知事署長官舎に逃げかくると出て居った始末であった。連年の不作に鑑み、早く出来る品種に改良されたのも此頃からであった。


一体宮城県の人は、大いに自重して軽薄なところがない。敏捷さはないが、スッカリ腹を決めてネチネチやり出すとなかなか根強いところがある。一般の人気は政治問題に向易く、政論のみ発達して産業熱の様なものが薄く、従って商工業は不振の状態である。自分は、産業政策は幾分自信もして居ったのだが、思う様な成果の挙らなかったことは残念に思っている。此の側面的方策として又独立したものとしても、県内多数各種の温泉場を活すべきとなして、自ら温泉場を観察もし、手工的土産物の奨励もし、他より大いに客を招ぶべく、大山君に温泉めぐりの本を刊行さして宣伝したが、繁昌せしめる域には達しなかった。松島なども、別荘地の簡易貸下げ、或は海岸の県事務所など開放し、観光、産業相俟って発展策を講じたわけだが、力が足りなかったのか?

県会内に党派の争いもあったが、極微々たるもので、原案其侭可決したことなどもあり、不偏不党至極公平に長官としては仕事は実にやりよい方であった。(文責記者にあり)


◎『宮城県の全貌』(17-22頁)より採録