今に至る仙台の文化を語る上で、「ろばたのおんちゃん」こと、天江富弥(1899-1984)の存在は巨大である。


いまや全国的に有名になった「こけし」の価値を見出し、本格的に紹介したのがこのおんちゃん。


これまた全国区になった「炉端焼き」のスタイルを仙台市内の居酒屋で初めて取り入れたのも、このおんちゃん。


おんちゃんは造り酒屋「天賞」に生まれたが、本業である酒の販売、居酒屋経営の他に、その活動は多岐にわたった。今述べたこけし発掘のような民俗学を手がけたかと思えば、大正の児童文学草創期にいち早く「おてんとさん」を創刊して、その普及にも努めている。


文学者との交流も厚く、草野心平・宮沢賢治・土井晩翠などはおんちゃんの交友圏内にいた人々である。


竹久夢二のコレクションも相当あったらしく、版画はもとより画家本人の書簡も多数お持ちだったようである。数年前、東京の古典籍オークションに「天江富弥旧蔵・竹久夢二関係資料 一括」という品物が出て、夢二の資料というよりもおんちゃんの資料としてこれが欲しくて入札はしたけれども、とてもとても手が届かない値段でどこかに行ってしまった。<残念>


おんちゃんの人柄というか、破天荒さというか、その人を引きつける魅力は並大抵のものではなかったようで、例えば、大の大人が大真面目に「河童祭」なるものを毎年・毎年執り行い、おんちゃんのこの催しに大勢の面々がこれに参列していたことなどを知ると、唖然となる。仙台でいうところの「おだつもっこ」(ふざける人)の極致であろう。なりふりかまわず、自分を捨ててでも、下らないことに全エネルギーを傾ける。そういうおんちゃんの気概というか心意気が今の仙台にも残っているとしたら、嬉しい。


かく言う私自身は、生前のおんちゃんにお会いした記憶がない。父が若い頃からおんちゃんのもとに出入りしていたので、もしかしたら物心も付かぬうちにおんちゃんの所に連れて行かれた可能性はある。


ただひとつ、おんちゃんから父に贈られたという背広の上下を、今私が譲り受けて、たまに羽織っている。どういう経緯かは知らないが、昭和30年代におんちゃんは、まだ20代そこそこであった父に、三越で仕立た背広をプレゼントしてくれたらしい。(何とズボンはファスナー式でなく、ボタンである。) この背広が唯一、おんちゃんと私の接点である。そんな個人的な想いもあって、おんちゃんこと、天江富弥の名前は忘れられないものとなっている。


さて、おんちゃんが亡くなった翌年、有志が集まり、次の一書を編んだ。おんちゃんの活動と思いがよく分かる本である。これは現在、宮城県図書館で閲覧できる。


炉盞春秋編集委員会編『炉盞春秋』

   (おんちゃん友達会(仙台)、1985年)


他に参考として、


河童祭の写真は次を、


http://www.hirosegawa-net.com/kioku/02_1.html



こけしの天江による評価については次を、


http://homepage3.nifty.com/bokujin/kanwa11.htm


参照されたい。(記して御礼申し上げたい。)


さて、以下で紹介するのは、『宮城県の全貌』(1933年)におんちゃんが寄せた一文である。仙台の郷土玩具を紹介したものであるが、読めば分かるとおり紹介というよりもその当時の玩具がおかれた状況に対する批判に近い。おんちゃんの目から見ても、昭和初期に伝統的な玩具の位置付けは大きな転換点を迎えていたのかもしれない。(抄録とする。)


あらためて、仙台の伝統文化を考えるきっかけにでもなってもらえればと思っている。


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仙台の土俗玩具


天江富弥


近来民俗学研究の一分野として土俗玩具の蒐集、及び研究が非常に隆盛になって来た。


玩具と云うと、「たかがおもちゃ……」と蔑視して、それに関心を持つ方は少いが、この土俗玩具こそは民族の成長と密接の関係があるもので、その消長を物語るものが即ち土俗玩具であります。


土俗玩具は封建時代に育ったものであるから旧藩別の風俗習慣と有機的関係を有しているで、仙台藩には藩独得のお国風な玩具があった訳である。


今左に、現存しているものを主として列記して見よう。


仙台(県内)の土俗玩具中、全国蒐集家の絶賛おく能はざるものに左の4種がある。


1・松川達摩


仙台藩士松川豊之進の創業の故を以て、この名称があるが、歳の市で鬻ぐ、例の達摩に外ならないから私等仙台人には珍とするに足らぬが、これこそは日本達摩界のオーソリチーである、あの本毛の眉、玻璃玉の眼、腹部の宝船や福神の模様等が断然他を圧している。


然し私にはこの達摩よりも火伏達摩を推奨したい、火伏の護符として昔時祭ったものであるが、今は歳の市にも見られない、ただ趣味家の求めに応じて僅かに作られるのみである。尚先年、仙台市上杉山通小学校訓導の松川家後裔の方に話を伺ったが、松川本来の達摩は現在のそれとは甚しく形態を異にするもので現在のは松川型を模倣したに過ぎない、とのことである。


2・堤人形


堤人形は無茶苦茶になって了った、全国土偶中第1位に数えらるべき堤人形も、まるで駄目になって仕舞った。これは一に県当局の指導が、無茶であった為だ、堤本来の精神を没却して、まるで見当違いの指導をした為である。


大正11年、全然系統異いの博多人形師を、聘して堤人形の復興改善を期した県当局の無智は、堤町に於て博多人形を作らしめ、ほんとうの堤人形の姿を完全にこの世から没せしめた。


試に現在仙台名物として鬻れている堤人形なるものを一見せられたい。

どこに堤独得の匂いがあるか、どこにお国名物としての特色があるか。


私等小芥子会は堤人形の完全なる復興に資する為、十数年前より、その型及び、作者の調査及び名作品の蒐集に渾身の努力を致した。或る時は人形屋に変装して僻村の木賃宿に種物売と合宿したり、 …… 人形窯元の床下に鼠の様に数日入り込んで古い型を掘り起したり、又は寺の過去帳や古墓石の文字を判じて作者の系統を調査したり、随分と努力をした甲斐があって、大よその調査も出来、名匠佐藤九平次の作の外各時代代表的絶品数十点も入手する事が出来た。


然し我等の努力も空しく、現在の堤人形は厳密な意味に於て廃絶し去ったというも過言でない。我等は、今更なにをか言わんやである。


3・こけし嫂子


木地人形こけしは東北地方に限り存在する特殊玩具である。私は十数年来このこけしに興味を持ってこれを蒐め調査してきたが、その単純な形態にあふるる独得の妙趣は、小生が昭和2年『こけし這子の話』上梓以来、驚く程こけし愛好者をつくり、現今では、土俗玩具界の一大分野を形成してしまった。目下大阪市にて開催のこけし研究頒布会の如きは数百の会員を擁する盛会である。


このこけしはその製作系統を大別して、3つとなる。その内で現在最も多くの分流を出し盛大を極めているものは宮城県刈田郡七ヶ宿横川村字熊沢で便宜上熊沢系と称しているが、同地は東北での木地業の発祥地で県内のこけしはすべてこの系統のものである。その内でも有名なものは鳴子と弥次郎と遠刈田新地である。これらの支流に仙台、白石、青根、作並、秋保、鎌先、小原等のこけしがある。


右県内数多くのこけしの内、全国的に有名なのは鳴子こけしであるが、弥次郎(刈田郡、福岡村)の土地部落でつくるこけしは作者の一人一人独得の持味があり、傑出したものである。又遠刈田こけしの古型は纏ったさびのある落付いたもので、仙台の高橋型のものと共に趣味家の好評を博している。


4・黒面


仙台張子玩具は全国張子玩具中最もガッチリと製作され居り、その種類も今尚相当多い。仲にもおほこと黒面は仙台独得のものである。おほこは明治中年廃絶されたものを、俵牛や獅子頭等と共に我等小芥子会が復興せしめたもの。藩公邸に明治初年迄お納めしていた由緒ある玩具で、張子製の大きい首人形である。現在は趣味家の観賞用として僅かに製作されている。


黒面は、外の面類と共に東照宮の神楽面を模して造られたもので、仙台独得の烏天狗、柏等の黒面は特色のあるもので、猿面五種と共に珍品とされている。


以上述べた外に、県下には木下駒、箆嶽、木ノ下白山、笠島、牡鹿松ヶ枝薬師等の蘇民将来、ぼんぼこ槍、神輿唐桑、弾猿、大漁船、風車、等数十の郷土玩具が現存しているが、別の機会に詳述しましょう。 

(九月中旬開店の前日記す)


◎『宮城県の全貌』(281-284頁)より抄録