凡例


・以下の記録は、2012年2月12日から、2012年3月31日までのTwitterでの呟きを主題別にまとめたものの一つ、「震災と支援をめぐる雑感」である。
・収録した呟きは、著者本人の独白形式のみを採り、RTとそれへのコメント、@付きでやりとりをした会話は除外した。
・各呟きは、ほぼ時系列に沿って提示している。("2011.07.17. at 15:23:10" で呟いた日付と時間を指示する。)

・その時々の印象を呟いたものがほとんどであるので、後に諸状況の変化が生じて事実とずれてしまった記載も認められるが、その時点での記録として収録している。
・収録にあたっては、誤字脱字を訂正し、必要最低限の補足修正に留めている。
・「※」を付して、呟きの背景を注記した箇所もある。
・一連の内容がまとまっている場合は、適宜、小見出しを付けた。


本文


実家の老母もやはり、地元のことを知るには貴重な情報源。地区の古くからいる住民の動向が手に取るように分かる。まあ、それがプライバシー不在に近い田舎のとんでもなさではあるのだが。年が明けてようやく、半壊住居の解体に着手した家が3軒ほどあったとのこと。やっと業者が付いたらしい。 (2012.02.12. at 08:17:55)


今朝も駅まで歩いてくる途中、明らかに地震以後、空き家になったお宅を数軒見かけた。解体・建築業の人手不足、あるいは住民側の費用不足で工事に進めないのだろうと推測。今回の震災では、沿岸部ばかりでなく、内陸の建築被害とその余波も深刻である。復興への道は平坦ではない。 (2012.02.12. at 08:24:30)


【拡散お願い】宮城県図書館では、東日本大震災関連資料を収集した「震災文庫」設立を企画されています。宮城県内はもとより、県外の新聞記事、ボランティアの活動記録、体験記なども、幅広く収集されています。詳細・お問合せは、下記をご覧下さい。http://t.co/i3I4crW4 (2012.02.13. at 15:29:09)


直前ツイートに関して。宮城県図書館で集めている震災関連資料は冊子体だけでなく、避難所のチラシや、復興応援イベントの企画書なども対象とされている。因みに私は、3月10日以来保存していた自宅の新聞を1年分寄贈する予定。新聞は縮刷版だと地域記事が収録されないので、県外各地の記事は重要。 (2012.02.13. at 15:35:17)


数十年単位で見ると、日本列島の太平洋沿岸部はどこでも津波に襲われる可能性があるから、減災対策はもとより、インフラがスクラップ・アンド・ビルドを免れないことは心しておかねばダメだろうな。今は東北沿岸がクローズアップされているが、東海沿岸に津波瓦礫が発生したらもっと大変になると思う。 (2012.02.15. at 08:03:55)


こういう言い方が許されるかどうか。被災地には段階的な復興の道筋があっても良いのでは、と思う。現在の住民には帰る故郷と生業を確保し、十数年後の世代交代時までを見越して、外部の新規参入や新しい住民流入が可能となるシステムを用意しておくこと。最初から完全な計画設計は無理もあるし。 (2012.02.15. at 08:33:28)


100年、200年の時間をかけて起きた出来事を仕事で扱っていると、10年、20年で一仕事するという感覚は別に不思議ではないわけで、ここにIT化を取り入れて効率化をということになると、アクセスできる情報量は劇的に増えるが、やはり一仕事するには10年以上かかってしまうという同じ道筋。 (2012.02.15. at 09:05:42)


教育支援について雑感


現在の大学教育は各方面から色々叩かれているものの、大学に進学しない教育機会が十全かと言われれば、それも心許ない。大学進学率の高低が基準の全てではないが、東北地方は以前から進学率の低い地域。この現状を正確に見据えない限り、都会的な発想で教育支援を被災地に導入しても空回りは免れまい。 (2012.02.16. at 22:03:17)


瓦礫が残る環境や、校舎・自宅も不完全、しかも災害トラウマを多かれ少なかれ抱えるであろう児童・生徒への教育支援は、素人考えでも「非常時」の教育実践が必要なんだろうな、と思う。普通に勉強したい焦りを持つ子もいれば、メンタルケアが要る子もいるだろう。どの方面の専門家が求められるのか。 (2012.02.16. at 22:17:48)


現場の先生方も様々な場面での対応に苦慮されていることを十分承知の上で、素人が「教育支援」などと言っているのだが、先生・生徒・親御さんの環境・経済・心理の負担をともかく軽減することが今は最大の教育支援になると思う。「知識」の注入、補充はそれと並行する形が理想なのかもしれない。 (2012.02.16. at 22:30:39)


何というか1つの問題を考え出すとあらゆる問題が繋がって出てくるので一人の思考ではもう無理。。。教育支援にしても、周囲の瓦礫どうする?新しいコミュニティーになじめる?町の経済活性化の見通し?等々。これを一刀両断にエイヤと解決できればいいんだが、多分それはカルトへの道に通じてしまう。 (2012.02.16. at 22:43:11)


20数年前、自分の大学受験の頃の話。東北6県にある大学の合計が、兵庫県一県にある大学数とほぼ同じ、ということを知って、高校生なりに、ああ東北は経済的・教育的にそういう地域なんだ、と妙に納得したのを覚えている。今は大分状況は変わっただろうけど、相対的な位置付けは変化していないかも。 (2012.02.17. at 00:20:37)

   教育支援について雑感(了)


読書『大災害と子供の心』


本日は、不本意ながら買おうと思っていた本が見つからなかったが、かわりに、富永良喜『大災害と子供の心』(岩波ブックレットNo.829)を見つけたので購入した。早速読み始めている。 (2012.02.17. at 14:11:53)


前掲・富永より。「セルフケアの視点のない「心のケア」はお節介にすぎません。」(p.6) これはどの支援に活動においても基本だろうな。 (2012.02.17. at 14:22:11)


阪神淡路大震災あたりまでは、震災の体験をその直後に被災者に表現させる「ディブリーフィング」が推奨されていたが、今は全くこれはやってはいけないこととされている。むしろ過覚醒という心身反応をコントロールするための「リラックス法」の体得が重要、と著者は指摘する。(冨永・pp8-9) (2012.02.17. at 14:45:37)


著者・冨永らのグループはインド洋津波後に学校でのカウンセリングを実践。その時の方針。→「その土地の宗教と文化を大切にしよう」・「現地で効果的な支援をしている人を支援しよう」・「継続してこの地を訪問しよう」(冨永・p13) 以前から自分も漠然と思っていたことなので、意を強くした。 (2012.02.17. at 14:50:01)


四川省地震の際に中国の心理学会に送ったアドバイス。継続性の確保。安心感のない場所で絵や作文で恐怖体験を書かせないこと。トラウマのアンケートのみ実施しないこと。トラウマなどの心理教育を並行させること。(冨永・p14) (2012.02.17. at 15:12:37)


冨永・第2章は日本心理臨床学会のHPで発表された「災害後に必要な体験の段階モデル」についての解説。(冨永・pp15-21)専門家には周知の事実であろうが、一般の我々も知っておくと良い内容である。例えば、子供たちの回復期によくある「津波ごっこ」。これは叱りつけずに見守ること、など。 (2012.02.17. at 15:18:13)


冨永・第3章「こころのサポート授業」は岩手県で実施された臨床心理士派遣事業と小学校での授業実践の報告。第4章「ストレス対処法を学ぶ」はストレスと対処法を子供たちにいかに教えて納得させるか。一般の我々にとっては、学校での実践を知っておくことで地域の子供と接する際の参考になるはず。 (2012.02.17. at 15:49:33)


冨永・第5章「成長につながる表現活動を」、第6章「未来にむかってつなぐ」。被災体験を子供に表現させるときの注意点。そして、これからに向けた指針。被災地からの転校生への配慮や、今後数年間は被災ストレスよりも経済的・家族的な問題でのストレスが増えるだろう事への警鐘。重要だと思う。 (2012.02.17. at 17:43:33)


ちょうど昨夜、自分なりに教育支援のことを考えていただけに、冨永良喜『大災害と子どもの心』を読めて良かったと思っている。この方面で実践を考えていらっしゃる方、周囲の子供たちとの接し方を模索している方には、ぜひお勧めしたい。
(2012.02.17. at 17:46:43)

   読書『大災害と子どもの心』(了)


震災一周年を前に


震災の記憶の「風化」に対する懸念があちこちで言われているが、100%の人が常に震災を覚えていてくれるということ自体は抑も無理。必要なときに震災を思い出してくれる事が大事。その際に正確な情報・記録の継承を手伝うのが、歴史家や、現地の資料保存機関。 (2012.02.18. at 10:51:04)


これも素人の呟き。今回の震災では津波浸水想定地区内に避難所!というケースもあり、避難所や備蓄施設の抜本的対策は不可欠。三陸沿岸のように平地が少ない地域はなおさら。今までの前提を取っ払ったアイディアも必要かと。例えば給食センターに非常食備蓄施設を併設するとか。 (2012.02.18. at 11:01:06)


これも都市計画や土木の方面では散々注意されていることだがメモとして。三陸沿岸被災地の高台移転問題は、津波前に当然発生している地震による土砂崩れ対策なども込みで考えねばいけないこと。過去二度の大津波の時も、高台移転は全般的に議論されたが実施完遂はごく一部。 (2012.02.18. at 11:18:29)

   震災一周年を前に(了)


読書『「ボランティア」の誕生と終焉』


あらためて、仁平典宏『「ボランティア」の誕生と終焉』(名大出版会、2011)を読んでいる。何かの社会的要請が生じる度に、ボラは大量発生し、何度となく同じ批判に晒され、その都度、説明理念を編み出してゆくさま。今の災害ボラの姿に見事に重なる。 (2012.02.19. at 02:14:09)


「有償ボラ」が言われだしたのは80年代。政策的誘導による。(履歴書にボラ歴を書かせる風潮もこの頃。)ボラの目的に「自己実現」が唱えられたのは70年代以降。【仁平、第7・第8章】意外に最近の意識転換だったわけだ。これでは被災地の支援意識にジェネレーションギャップがあっても仕方ない。 (2012.02.19. at 02:24:27)


「すでに一九九五年までにボランティア推進に関わるかなりの制度的枠組みが作られていた」【仁平・第9章】「行政を介さない支援の仕組み!」と叫ぶ組織があるが、そこに動員されたボラは行政が道筋を付けてできたもの、という皮肉を思わざるをえない。 (2012.02.19. at 03:17:45)


仁平第9章より。1980年代以降の企業の国際化に伴い、欧米文化の「社会貢献」が話題になり、「1%クラブ」が設立される。NPOと企業の親和性も高まる。/これは環境問題改善を積極的に打ち出して社会貢献を謳う企業の続出時期とパラレルなのではないか? (2012.02.20. at 14:59:56)


仁平、第9章より。1990年代以降の「<政府/市場/市民社会>のいずれへも還元不能なこの空間においては、情報が透明に公開され、健全で効率的な経営の精神と技術をもつことこそが、何より重要とされる。この中で「ボランティア」は消滅するわけではない。ただ冗長になるだけである。」 (2012.02.20. at 15:27:03)


NPOの活動原理の下位にボランティアのそれが置かれる状況が1990年代以降出現したわけか。。。事の是非はともかくとして、情報の透明性・経営の健全性を持たねば、ボランティア団体は「社会的」承認、合意を得られない構造に組み込まれてしまった、と理解。NPOへの上昇志向もこれで納得。 (2012.02.20. at 15:32:14)


仁平第9章、京極高宣「『互酬性』の意味するもの」(1993)からの引用。「(かつてのボランティアは)一方で行政責任を追及しすぎ、他方で奉仕性を強調するあまり、本来的に地域の人々の間にあった相互援助的機能、互酬性の尊さを見失ってきたのではなかろうか」 (2012.02.20. at 15:58:45)


90年代に関係者の間では葬り去られた経緯を持つボランティアの社会に対する「運動」的要素が、今回の災害ボランティア周辺でゾンビのように復活してしまったわけか。うーむ、「歴史は繰り返す」、と簡単にまとめてしまって良いものだろうか。 (2012.02.20. at 16:03:27)

   読書『「ボランティア」の誕生と終焉』(了)


ブレーキの無いバスを幼児が運転し、後ろでは乗客が好き勝手やっている。幼児だからクラクションを鳴らし続けて自己主張する。そんなバスに面白そうだからと飛び乗る人もいるが、普通は、そんな暴走バスが来たら逃げるわなあ。最近、こういうバスに例えてしまいたくなるような集団が多くて困る。 (2012.02.21. at 08:00:07)


被災地観光の是非は分かれるだろうが、できれば、いまだ復興すらほど遠い景観を見てもらい、前向きに進みつつある人の話を聞いてもらいたい。だが、逆のパターンになったらまずいだろう。 (2012.02.23. at 06:53:55)


今日、あらためて旧石巻市街地から牡鹿半島までの5万分の1地図を総覧したが、これは漁業被害の実態を明確に知らせてくれる地図だ。なぜなら、湾という湾の海面に、ワカメや牡蠣や海苔の養殖場エリアがびっしり書き込まれている。あの津波でこれらがすべて流されたと思うと、天を仰ぐより他ない。 (2012.02.23. at 22:35:52)


被災地を巡る


今夜の帰り道は、三陸道の一部が工事通行止めだったので、松島北ICで降りてR45の下道を走った。夜道の暗い中、海岸と近接した国道を走る不安といったら。。。 このタイミングで再び津波に襲われたら、逃げるすべがない。 (2012.02.23. at 23:01:44)


実家で朝を迎え、窓から外を見たら、隣家が解体され、土台だけになっていた。また一つ、身の回りの風景が変わってしまった。大局的に見れば、こういう具合にあちこちで解体工事が進めば、被災地の瓦礫は増えていくことになる。瓦礫は、決して津波被害ばかりによるものではない。 (2012.02.24. at 07:17:13)


被災地の教育支援のことを考えるとき、どうしても子供たちの習熟度や教育環境にばかり目がいくが、親御さん・ご家族の教育、受験に対する不安を払拭するという側面も大事であろう。ご家族との教育相談、これはちょっと学生さんには難しいかな。教員や学校関係者が参加しないと無理だろう。 (2012.02.24. at 07:54:49)


高砂地区の中野小前に到着。高砂橋を境目として被害の様相に歴然とした差がある。七北田川下流域はいまだ、手付かずの箇所多数あり。津波直後よりも更地はたしかに増えているが。仙台市内ですら、このような具合である。 (2012.02.24. at 08:54:14)


岡田の元ローソン敷地。付近は大分更地が増えた。さすがに根こそぎ流されてきた松の大木はほとんど撤去ずみ。海岸から2km以上離れている所に海から大木が押し寄せてきたことは、多分信じてもらえないだろう。実際に見るまでは。 (2012.02.24. at 09:28:36)


行き交う車は、瓦礫を満載したトラックか工事用車両ばかり。わずかに残った住宅も一階部分ががらんどうで、津波に貫通された姿のままがほとんど。一階の窓にブルーシートという光景。 (2012.02.24. at 09:31:42)


今日は高砂・岡田方面を見てきたが、ある区間・地区は全くの荒涼たる「砂漠」。何が異様かと言えば、小学校の校舎(1階部分が大破)と体育館だけが、ポツンと赤茶けた大地の砂漠の中に立っている。小学校だったから周囲にはたくさんの住宅があったはずである。この砂漠は時間が止まっている。。。 (2012.02.24. at 20:43:47)


今日、高砂の次に訪ねたのが、女川の蒲鉾本舗の高政さん(@takamasa_net)。高政さんにはお忙しい所を生産ラインについて、女川の雇用状況、放射能検査体制についてご説明をいただきました。ありがとうございました。 (2012.02.24. at 21:40:15)


高政さん(@takamasa_net)のお話。震災直前に新工場を立ち上げる段取りが組めていたので、いち早く販売製造を再開できたのはラッキー。空いた元の工場施設には、被災して再建を目指す水産関連企業、4・5社に入ってもらえることに。新規雇用が数十人見込める。 (2012.02.24. at 21:46:05)


高政さん(@takamasa_net)。新工場の生産ライン20名の内、新規採用は10名、さらにこの春10名を新規採用。それが地元企業の務め、と仰る。新工場には世界最長20mのIHフライヤー(笹かま焼き器)、すりみにぷりぶり感を残す工夫のボウルカッター(すりみ製造器)を導入。 (2012.02.24. at 22:01:20)


高政さん(@takamasa_net)。会社独自に測定装置を購入し、放射能検査。魚本体・すりみ・製品の3段階で検査。大丈夫であるもののみを出荷。つい最近は工場に太陽電池パネルを設置。災害の時の非常用電源として想定。毛布なども準備しているとのこと。 (2012.02.24. at 22:07:15)


高政さんには、明日新発売という、シソいり笹かまぼこを試食させていただきました。ありがとうございました。なお、工場の生産ラインはガラス越しに見学可能。お薦めです。 (2012.02.24. at 22:11:04)


女川の次には、三陸道経由で南三陸町に行った。震災前は民宿をされていた日の出荘さんが、高台(商工団地内)に移転して居酒屋として再開されたということで、早速訪問。南三陸町の飲食店組合が勧める郷土の海鮮丼、「キラキラ丼」を注文。港町ならではのボリュームある豪華どんぶりを堪能。 (2012.02.24. at 22:22:35)


年が明けてから、南三陸町を訪れたのは初めてだった。45号線の戸倉方面から入り、398号線の入谷から抜けるルートを走った。明日からの復興名店街の幟が398沿いにはためき、活気を見せる。一方、同じ沿線に津波被災車両の集積所が設定されていた。辛いけれども直視しなければいけない現実。 (2012.02.24. at 22:31:52)


南三陸町からとんぼ返りで石巻に戻り、あるボランティア団体の支援活動を見学。まあ、対人関係のあることなので詳細は語りませんが、非常に参考になりました。終わった後、参加された方を車でお送りしました。それくらいの支援しかできず申し訳なかったですが。そんで、仙台で牛タン食べました。 (2012.02.24. at 22:41:35)


七北田川河口付近にある中野小学校の現況。6月に来たときは、まだここは復旧車両以外立ち入り禁止だった。 http://t.co/ZvXNM9vQ (2012.02.25. at 15:23:18)


やはり、同じ場所から南の岡田方面をのぞむ。 http://t.co/xXAidlcj (2012.02.25. at 15:25:33)


中野小学校の敷地から東の海岸方向を見ると、こんな感じ。 http://t.co/F9PG0etC (2012.02.25. at 15:26:57)


中野小学校の校舎は、今こんな感じ。 http://t.co/CZP139Ng (2012.02.25. at 15:29:23)


中野小学校の傍らに、土台は新しく作られたものの、古くからこの地にあったと思われる地蔵様があり、合掌。 http://t.co/XcFNfJIW (2012.02.25. at 15:33:31)


七北田側の南岸。岡田地区にある元のコンビニの現況。 http://t.co/yhUpQsUo (2012.02.25. at 15:52:10)


岡田からさらに南下して、荒浜小付近の交差点から北を望む。荒涼たる大地。電柱の列は震災後の新設。 http://t.co/1Cw99km1 (2012.02.25. at 16:00:39)


同じ場所、バス停南長沼付近にあったGSの現況。仙台駅から直線距離でちょうど10㎞ぐらいのところです。 http://t.co/PHGIEFuT (2012.02.25. at 16:07:54)


若林区荒浜小の現況。いまだ、「震災復旧関係者以外の通行」はできないエリアの中にあります。まだまだなんですよ、復興までは。 http://t.co/nXBgSeki (2012.02.25. at 16:14:36)


県道137号線を西へ。瓦礫はほぼ撤去され、田んぼの表面が整土されている。(次に提示する写真と比較されたい。) http://t.co/XF8xjlg7 (2012.02.25. at 16:38:47)


2011年5月31日に撮影した、宮城県道137号線沿いの比較写真。(前のツイートを参照。) http://t.co/H3THslmM (2012.02.25. at 16:42:47)


被災地の写真が続いたので、復興に向けた明るい写真も。南三陸町で再開なった日の出荘さんで昨日食べた「キラキラ丼」です。 http://t.co/XOoZThxI (2012.02.25. at 17:57:55)


先日、女川で雑談の折にうかがった話。地元で求人が出てもほとんど人が集まらない。要因の一つは、地域の最低賃金が低いため、失業保険等との間に手取収入の差がほとんどないこと。月あたり20日間拘束されて、3万円ほどしか差がなければどちらの行動(就労か給付生活)をとるかは明確。 (2012.02.26. at 10:55:25)


かといって、経営側にも最低賃金に大幅な上乗せをした額を提示できる余裕を持った業種が現地にほとんど無いのも現実。基幹産業(女川の場合は漁業・水産加工)の早急なてこ入れが必須。 (2012.02.26. at 10:59:57)

   被災地を巡る(了)


被災地支援のための大組織は、多かれ少なかれ「石巻モデル」のようにスキル毎に分科会を備えたツリー状組織になるのかな~ と、中原一歩『奇跡の災害ボランティア「石巻モデル」』、朝日新書、2011年10月を読み直して感じた。行政とボラ団体が対等に連携した画期的モデルだし。 (2012.02.26. at 17:56:30)


今月は色々な一周年企画やドラマの類いが放映されるんだろうけど、何かモヤモヤした違和感の正体がやっとわかった感じ。それは、震災を素材にしたときの結末の不明確さかな。いまだ進行中の事態を無理矢理どこかで区切りをつけて見せられる事のとってつけたような空々しさが予想できることかも。 (2012.03.01. at 14:40:26)


戦前の自然災害について


昭和8年(1933)の三陸大津波は3月3日に起きました。昨年の震災があったから今さら思い出したように見られても仕方ありませんが、こちらの惨事でお亡くなりになった方々への追悼を捧げます。 (2012.03.03. at 08:01:00)


年表のように時系列で並べると改めて見えることがある。関東大震災(1923年)、三陸大津波(1933年)、敗戦前後の4大地震(1944-46)と並べると、ほぼ10年毎に広域災害に見舞われている。このあたりの災害史を振り返るだけでも、今の我々にも有益な点は多々あると思う。 (2012.03.03. at 09:41:00)


敗戦前後の4大地震は、鳥取・昭和東南海・三河・南海。いずれも相当の被害が出た。内3つは、戦時中に発生したため、軍の情報統制が徹底されて詳細な報告が公表されず、今なお被害の全貌は不明とのこと。記録を残さなければ、災害の記憶は風化してしまうことの残念な教訓であろう。 (2012.03.03. at 09:51:41)


これは既に各方面から言われていることだが、日本の歴史教育に災害関連情報を積極的に盛り込まねば。高校ならば地学教育との連携も含めた内容があっていいと思う。一部では始まっている企画かもしれないが、恒常化させねば。 (2012.03.03. at 09:59:32)


敗戦直前に起きた巨大地震(西日本に被害)の被害記録がしっかり残っていれば、阪神淡路以前にあった、日本人の地震に対する意識の東高西低は幾分是正できていたかもしれない。今さら悔やんでも仕方ないことだが、それだけに、地震予知とともに地震の記録保存の重要性は両輪だと考えている。 (2012.03.03. at 10:08:23)

   戦前の自然災害について(了)


だいたい、震災からこの一年で、口だけの人と中身を伴った人はふるい分けられたと思ったのだけれども、マスコミは分野を問わず、口だけの人を表に出す。リサーチ能力が欠如してるな、まったく。 (2012.03.04. at 07:41:59)


この一年間、何度か同じ事を呟いてきたが、震災被災地の途轍もない広さを意識できるかどうか。海岸線距離だけでも東名道ほどの規模。しかし、人間が利用しうる土地面積は限られている。工業用地にしても、瓦礫処理場にしても。そのあたりが意識として勝手に解釈されると議論や対話は永遠に進まない。 (2012.03.04. at 17:02:11)


紀伊半島を襲った昨年の台風も巨大な被害をもたらし、今なお復旧・復興の途上ではあるものの、東日本大震災のような広域的被害ではなく、国レベルの対応において復旧支援の時間的格差はほとんど見られなかった。逆に、今なお支援格差、復旧格差が課題となる東日本大震災の被害規模が浮き彫りになる。 (2012.03.04. at 17:12:07)


震災被災地を何度も歩くと、確かに仙台のような大都市の復旧は著しく早かったし、沿岸部の津波で流され、散乱した瓦礫が撤去されている姿もよく見えた。だが、何と言うのだろう。支援や資金を注ぎ込めど注ぎ込めど、大地に吸い込まれるだけに見えてしまう被災地の大きさに、ため息しかない1年だった。 (2012.03.04. at 17:29:00)


人間の力の自然に対する無力さは痛いくらい見せつけられたし、自分たちが作った複雑なシステムのアクシデントの事後処理すら全くうまく行かないことも露わになった。だから、人間の力を直接対人関係に向けた支援にあてた時のみ、自分たちの力のささやかな有効性を感じ取れたのかもしれない。 (2012.03.04. at 17:37:06)


復旧にせよ復興にせよ、言葉は一つでも、誰が何を実現したかで全く異なる姿と意味を持つ。心の復興、生活の復興、町並みの復興、経済の復興…… 震災の痕跡を消すことも復興だし、記憶を留めることも、次の震災に準備するための復興の一部。お金と人口動向(勿論大事だが)だけに偏らない復興意識を。 (2012.03.04. at 18:35:36)


この1年、どうしても自分の理解・見聞できる範囲でのみ被災地を捉えようとした反省がある。一つの町、一つの地区内ですら復旧に差があり、如何ともしがたい現実を後から後から知らされた。かたやネット上では拾えない情報として、黙々と復興を進めている企業や個人の方々も多数いらして励まされた。 (2012.03.04. at 18:47:23)


発災直後に被災地外から「とにかく何でもしなきゃ!」という意識で駆け込もうとした人は、宮地尚子さんが言う「過剰に自分の役割意識にとらわれる人」(『震災トラウマと復興ストレス』)に近い状態に陥ったのかもしれない。自分も含め、現地で何もできたように見えない絶望がやがて訪れることとなる。 (2012.03.04. at 18:59:38)


既に言ったように、あまりにも被災地が広大なので、支援に入った人はどこにでも復旧の現場を見つけられた。現地に行けない人も、ネット経由のクリック一つで支援に参加できた。この二つが、今回の被災地支援に特徴的な条件であろうと思う。だが、被災地との双方向的なやりとりは諸刃の剣でもあった。 (2012.03.04. at 19:08:11)


被災者と支援者の接触は以前は、現場での直接的なものに限られていた。今回は被災者が救援要請を発信し、それを後方地域が拡散する段階から始まり、物資支援もネット上で、という新しい接触法が定着した。しかし感情的な諍いや、デマの拡散、情報格差による地域の分断化、個人情報の悪用等も発生した。 (2012.03.04. at 19:18:19)


もちろん、以前からの「募金」は手軽にできるが直接相手の見えない支援手段だった。ネット上での直接支援が定着したことで、双方向性のやりとりが強化された。現場での支援もリアルタイムにネットで情報が流され、あたらしい繋がりを構築する手助けにもなっている。デメリットへの自覚は更に必要だろう。 (2012.03.04. at 19:31:21)


これは被災地支援に限った話ではないが、ネットの情報だけで価値判断を下してしまう人たちが一定程度でてしまう傾向の危惧は、今回の被災地支援・原発事故対応でも例外なく現実となってしまったと思う。本人に自覚のない軽い洗脳状態の場合も含め、これへの対応、対話法確立は急務かもしれない。 (2012.03.04. at 19:59:50)


うーむ。被災地の瓦礫処理に今のペースだと20年近くかかると言われてしまうと、その間に、次の震災が必ずどこかにやってきているような気がする。 (2012.03.04. at 20:09:44)


昨日もツイートしたけど、関東大震災以後の戦前の巨大地震は10年刻みで来ていますからね、全国規模で見て。 (2012.03.04. at 20:13:07)


宮城県図書館調査報告


今見ている資料。三陸大震災史刊行会編『三陸大震災史』(友文堂書房、昭和8年4月15日発行)。なんと、三陸の大津波からわずか1ヶ月後に発刊された震災報告集!全185頁。序文は仙台の郷土史家・藤原相之助で、彼は明治29年の津波もにも救援活動をしていたとのこと。それ自体が歴史だ。。。 (2012.03.06. at 10:55:08)


緊急報告集『三陸大震災史』には、先日紹介した『宮城県昭和震嘯誌』に再録された写真も多数あり。再録されないもので重要と思われるものも幾つか。例えば、炎上中の釜石港の現場写真など。 (2012.03.06. at 10:59:40)


もしかしたらこの釜石港の写真は、津波が襲来した後に火災が起きるというケースの、日本では一番古い現場写真になるかもしれない。こういう記録を埋もれさせないようにしないと。 (2012.03.06. at 11:07:23)


戦前の津波・震災報告書には決して触れられない話題があることは薄々感じていたが、戦後にまとめられた回顧録にようやく出てくる。被災地での共産党員・無産運動家たちへの弾圧の実態である。その一端が、山下文男『哀史 三陸大津波』(青磁社、1982)に記されていることをようやく見つけた。 (2012.03.06. at 11:26:15)


次に見ている資料は、大船渡市立博物館研究報告『三陸沿岸地震・津波年表 東北地方太平洋側における歴史地震・歴史津波』(1990年3月)。西暦799~1867年までの情報を収録。巻末の参考文献、一次史料一覧が貴重。今回の津波で流出したに違いない史料名がたくさんあり、痛恨の極みである。 (2012.03.06. at 11:40:34)


1978年の宮城県沖地震に関する報告書(仙台市)を眺めていたら、この時の津波の高さは14~22cmという記載があった。これでは、津波に対する油断が生じても仕方ないなあ、と思った。 (2012.03.06. at 14:20:18)


先の山下氏の記述によれば、津波には激流のような速いものと緩慢に推移するものがある、と。しかも三陸の場合は、安政(緩慢)・明治(激流)・昭和8(激流)・チリ地震(緩慢)の順に襲われた。各世代の津波に対するイメージが異なっていたことで、被害も大分差が出たらしい。 (2012.03.06. at 14:27:24)


そこで思い出したのが、今回の津波の時に聞いた言葉。チリ地震津波では、波と波の間の引き潮が大きく、魚を拾った人もいた。これが緩慢型。だからそれを津波のイメージとして持っていた世代は、今回の激流型津波を初めて見たことになる。あらためて、防災教育の難しさを知らされた思いがする。 (2012.03.06. at 14:32:38)

   宮城県図書館調査報告(了)


色々考えたけれども、地震から1年目となる11日は、地震に遭った同じ場所に立って迎えることにした。大学の前にある天神通りの真ん中。灰色の空に電線が激しく揺れていたんだよなあ、あの時は。 (2012.03.07. at 06:54:20)


「専門家としての提言」と「市民としての要望」は共に大事であるが、発言の種類を混同してはいけない。えてして、マスコミで発言する識者はその傾向があるんじゃないかな。自分を例にすると、江戸時代の資料保存なら少しぐらい提言できるけど、都市計画や義援金システムには要望しか言えないね。 (2012.03.07. at 08:01:51)


宮城の津波で流された沿岸部にかなりの密度でコンビニが乱立し始めたけど、復興工事の現場の人を当てにした配置なのかな。 (2012.03.07. at 08:34:19)


局所的な常識があるように見えて、大局的な良識の無い人がいるよなあ。。。。え?私?批判するのは簡単だからね (^-^; (2012.03.08. at 12:59:27)


被災地支援で、支援者は1クリックで物資や義援金を現場に投下し、それを仲介する側も手軽にマンパワーと資金を集められるようになった。だが、この手軽さで支援活動全体が容易になったわけではない。裏方の仕事、現場の調整、クレーム対応は今まで通り。そこを疎かにする支援組織は崩壊する。 (2012.03.09. at 09:01:27)


新幹線の車内で、ふと見かけた週刊紙の背景写真。ああ、これは閖上の更地になった所に違いない、と見えた。ちょいと横目で見たら、やはりそうだった。被災地写真はどんどん「記号化」「象徴化」されていくんだなあ。直接現地に関係の無い記事で使われるイメージ。難しいなあ。向き合い方が。 (2012.03.10. at 22:01:43)


今日、一日は、普通に過ごします。それが、生ある者のつとめ。そして、祈りと再生への思いを新たに。 (2012.03.11. at 01:47:22)


去年の3月11日は大学にいた。グループで応募していた科研の不採択通知を13時に受け取り、こんちくしょう!とグダグダして、腹減ったなあと気付いて昼飯を買いに外に出たのが14時30分。コンビニの中で地震に遭い、研究室に戻ったら、本やガラスが散乱していた。部屋にいたら確実に死んでいた。 (2012.03.11. at 08:22:37)


命拾いしたからには生きるのがつとめ。とはいえ、今思えば、震災ストレスで3~4ヶ月はまともな精神状態ではなかったかもしれない。細かい事務作業への集中力が落ちてしまったのは顕著。 (2012.03.11. at 08:28:52)


明日から再び始まる被災地の支援活動。(支援というよりサポートかな。)忘れる人は忘れてくれていいと思うんだが、そういう活動に携わっている人たちの邪魔だけはしないでほしい。 (2012.03.11. at 09:00:23)


さて、もう少ししたら、1年前に地震に遭った場所へ行こうと思う。その現場に立って、祈りを捧げたい。また後ほど。 (2012.03.11. at 14:29:34)


これより黙祷。目を閉じる前に仰いだ空の白雲に、万感を込め。調布にて。 (2012.03.11. at 14:45:09)


また、一歩から。 (2012.03.11. at 14:47:11)