凡例


・2011年7月28日~2011年12月12日までの間にTwitterで呟いた、歴史学、科学史、大学での講義といった、アカデミックに関わる話題をまとめたもの。

・末尾の数字は呟いた日付。

・個人的なメモがほとんどの内容。出典は必要最低限の文献名のみを提示している場合が多い。

・誤字脱字、若干の訂正を施した箇所がある。



本文


富山県内での資料調査


これから火薬の調査。


今 道の駅「たいら」 郷土資料館で調査。 すごいなあ、ここの技術史関連展示。硝石、養蚕、和紙、農林一号。明日も帰りにまた寄ろう~ 合宿調査もよさそう
(2011.07.28.)


【東大科哲と南三陸町の歴史的因縁】宮城県図書館で調べて分かったこと。遣米使節の一員だった仙台藩士・玉虫左太夫が戊辰戦争の時に捕えられた場所が今の南三陸町。彼はこの地で塩田開発を推進しようとしていた。この玉虫のひ孫が、科哲の創設者、玉虫文一先生。
(2011.07.30.)


夕方、南三陸町から足を伸ばして宮城県旧東和町内に「後藤寿庵の碑」を探す。田んぼと里山をうろうろ歩いたがだめだった。30cmにも満たない石に屋根掛けしたのをやっと見つけたが、真偽の確証がない。この後藤氏は、江戸時代初期のキリシタン。治水などに功績。えてしてキリシタン関係遺跡は不明朗な物が多いので厄介…
(2011.08.16.)


本郷にて調査


調布着。今日は一仕事して本郷の編纂所で地図調査。都内は暑そう…


今日見た地図の中にマテオ・リッチ『坤輿万国全図』の軸装した写しが出てきた。残念ながら半分のみ残存。比較的初期の特徴を残しているものと判断。二時間ほど眺めていた。 
(2011.08.24.)


今日は遠方からお客様。うちの部屋の本を見ていかれて、色々雑談。本棚を探りながら話をすると、「しまった!こんな本もあったか」、と思い出すので有益。というよりも、しっかり整理しとけ、自分。
(2011.08.25.)


十三湖の中世史料


十三湖の歴史民俗資料館着


「奥州十三之図」(慶安元年極月/市立函館図書館蔵) これは後日要チェック


この資料館は中世史・考古のファンにはたまらないだろうなあ。展示品は一級品ばかり。さすが貿易港の大遺跡。多賀城などよりも面白い。東北一かも(^-^)  
(2011.09.16.)


弘前市立図書館にて


昨日の午後は、事前予約も無しに弘前市立図書館の調査室に飛び込んだ。津軽地方の郷土史や科学技術史関係資料に関する最新情報を集めるため。自分にとっては初めて眺める地域の情報だったので、例の如く1回目は偵察のつもりできたのだが、事態は思わぬ方向へ展開した…


調査室に入った途端、司書の方と目が合い「ここは初めてなんですが…」と挨拶すると、「どうぞ、どうぞ~」と気さくな方。まず目録類の確認。「近世関係はこれです」とカウンター備付けのものまでドサリと出していただいた!それで、「和算と測量が専門なんです」と自己紹介すると、…


「じゃ、乳井貢はご存じ?」と司書さん。乳井は津軽藩家老で、和算・測量にも造詣の深い近世後半の人物。むしろ思想家として有名。彼の最新研究を探すのが今回の目的の1つ。で、「もちろん」と答えると、司書さん「先日乳井の和算資料読んだけど、サッパリわかんなくて」と仰天発言…


たしかここには乳井の子孫が寄贈した資料が何点かあったはず…とその程度の理解で今回は来た。それで、司書さんも和算や測量関係の資料を知っていたとなると話は早かった。何と次の瞬間、司書さんは書庫に入って行かれ、乳井関係資料を一抱え分持って戻られ、ドサリと出して頂いた。


乳井関係資料はそれで全貌を把握。関流和算ではなく、儒者が陥った術数的算術に傾斜していたことを確認。(面白いことは面白いのです。)それで、次のターゲットに探りを。「津軽藩の絵図類もここでお持ちですよね?弘前大学の羽賀先生が戦後まもなく研究されてたんですが…」と振ると…


「絵図ならこういう参考書が…」と出されたのが、東大出版会の『絵図学入門』(2011年)!!!これ、私が2章分寄稿した本(^_^;) で、さらに話は早かった。もちろん司書さんも私の素性(?)にはビックリ。


そこで、自分が書いた部分を示して、「この津軽藩士・金沢勘右衛門を調べたいんですよ」と話すと、司書さんが即座に検索をかけてくれて、関係資料を4点ほど確認。これも出して頂いた。何と絵図に関係文書もくっついていた!!これは1680年代の絵図関係資料としては奇跡に近い。


資料の出てくる間、目録を確認。そこでまた仰天。『規矩元抄』がここにある!!この資料、5月の科学史学会で自分が紹介したまさにその本。津軽の地元から出てきたとなるとこれは貴重なはず、と直観が働きこれも請求。予想は大当たり。年紀は無いものの、厚手の雁皮紙に書かれた伝書…


震える手で、出された『規矩元抄』をめくると、この時代の測量術の様子を伝えるまさに完全本。5月には分からなかったミッシング・リンクがそこにあった。オランダから日本に伝わった測量術がどのようにして日本に受け入れられたのかを示す資料であった。感無量。偶然の導きに感謝。


わずか1時間半の調査で10月の学会発表のネタは決まった。(^_^;)追加調査も必要なので、10月にまた弘前に来なければダメだな… 資料との出会いはこんな感じの偶然の連鎖。もし別の司書さんのシフト時間だったら、と思うと不思議である。感謝の連続の調査でした。
(2011.09.17.)


一関市内探訪


一関駅前の大槻三賢人像。一関は仙台藩支藩田村家の城下町。和算と蘭学で有名。蘭学の巨人・大槻玄沢がここの出身。子が磐渓、孫が文彦。これが三賢人。 http://t.co/YTJn95BB


大槻三賢人略解説。玄沢は杉田玄白の弟子。多くの業績があるが医学用語の「腺」を考案したのは一例。磐渓は奥羽越列藩同盟の立役者。文彦は日本初の近代国語辞書『言海』を編纂。


一関市内運動公園のふもとにある祥雲寺。若き玄沢を見出だした一関藩医・建部清庵、『算法新書』の著者・千葉胤秀、玄沢門人・吉川氏の墓所である。だがこの案内だと見えない… もったいない http://t.co/2VcgqzvN


玄沢門人、吉川良雄の記念碑を撮影。彼はオランダ文字を見やすくまとめた一枚刷を刊行。『蘭学ハイケイ』(1793年)。オランダ語が普通に流通させられるメディアがあったわけです。この記念碑は彼の一枚刷を銅版に起こして子孫の方が建立。 http://t.co/xGpumVR1


豊吉の墓。天明年間に一関の医師たちが死体解剖したが、死体は刑死した豊吉のもの。罪人だが、解剖に貢献したことと供養の意味で墓が建てられた。バス停八幡の側。医の倫理を考えさせられる遺跡。無縁塔が半壊。 http://t.co/KksCsboO


和算家・千葉胤秀の墓所。完全に倒壊してる… (;o;)4月の余震で倒れたか?無惨だ… http://t.co/4D6r41Xz


一関はともかく年中餅をたべる。何せ、正月七日の七草粥にまで餅を入れる!たぶん昔は毎週一度は餅… 豊かな生活を送ってたんだなあ。写真は餅本膳。 http://t.co/NlBOM0Xq  
(2011.09.17.)


芦東山記念館


旧大東町の芦東山記念館へ。江戸時代中期の仙台藩の学者。私も好きな男。刑罰は教育刑であるべきで、死刑廃止を唱えた。「刑は刑無きを期す」は彼の言葉。 http://t.co/HvKYSNsU


芦東山は室鳩巣に託されて刑法を研究。反骨の人で、藩校教育に家柄の上下を撤廃するよう藩主に上申。罰として20年以上幽閉される。つまり、当時の罪人が刑罰の理想を説いたのである。写真は記念館。 http://t.co/gXG52XoU


車を走らせれば分かるが芦東山の出たこの地域は、山と水田が連なる田舎である。ここに限らず、江戸時代の日本の田舎は、なぜこんな場所に最高の知性が生まれたのか、と不思議に思わせられる所ばかりである。現代はどうか?写真は記念館からの眺め http://t.co/CGSBH6ZC   
(2011.09.17.)


南三陸町の津波被災史料


おはようございます。さっき4時に寝て、ボチボチ起きました。今日は、昨日南三陸町でお預かりした資料類を大学に搬入します。乾燥・一次処置・分別を順次していかないと。


昨日は、南三陸町のUさんのご紹介で、Mさんのお宅の文化財レスキュー作業をさせていただいた。主として明治から戦前の書籍、文書をお預かりした。津波に洗われたまま湿った資料の処置から必要。地域の教育や習慣を知るうえで貴重な資料。和算の綴じ込みも二点ほど確認。


解体予定の納屋も視認調査。明治の建築。二階に上がり、柱の墨書を見つけて仰天した。「明治廿九年旧五月五日大海嘯」とある!これは明治の津波の貴重な証言…この一行と出会うための運命だったのかと思い、涙が出た。Mさんも初めて気付いたとのことで、この柱の保存をお願いした。
(2011.09.19.)


研究者を目指す人というのは、「共感される少数派」であることを心がけるべきなのかも。批判されることも、共感を受けてこそ。
(2011.09.28.)


古書購入


半時ほど、古本屋の店番のおかみさんと世間話しながら、和本を探索。震災の後はさっぱり商売にならなくてねえ、という愚痴に始まり、業界の今の様子などを聞きつつ、掘り出し物を数点確保。一部は今日支払い、残りは冬のボーナスで支払うべく、取り置きをしてもらう。


今日確保した資料は、例のごとく分野はてんでばらばら。測量術、仏書、農業書、海防論、算術書。一体何の研究をしているのか分からないラインナップ。数ヵ月前に取り置きしてもらって忘れたままの資料も支払いを済ませた。申し訳ない…  
(2011.09.28.)


松本市内にて:

  あかり博物館・山崎ます美さんのこと


長野の北部地域(北信)とあかりの関わり。この地域には江戸時代、2つの特産品があった。1つは菜種油。もう1つは、今のマッチのように使われていた「つけ木」。菜種油は食用と燃料として利用。つけ木は薄く削った木の板や棒に硫黄を付けて、火打ち石などで作った火種に着火させて使う。


【旅枕あんどん】あかり博物館の収蔵品で私が気にいっている一品がこれ。江戸時代に作られた箱形枕に、何と15の機能や小物がコンパクトに納まっている。(写真は絵葉書から)その機能とは… http://t.co/gmLUN3ME


…次のもの。手燭・毛抜き・剃刀・書状用紙・薬入れ・筆・物差し・枕当て・算盤・元結いのこより・蝋燭・鏡・お守り・さいころ・眼鏡(…なぜさいころが?遊び用?この凄まじいまでの収納力!)


【山崎ます美さんのこと】昨日、日本のあかり博物館に行って、また偶然ながら、しみじみよかったと思わせられることとなった。ミュージアムショップで見つけた一冊の本、山崎ます美遺稿集『燈火・民俗見聞』(ほおずき書籍・2006年)のことである。この本を購入したのにはわけがある。


この本を書かれた山崎さんは、あかり博物館の初代学芸員。ほんの一回だけ、知人を通じてお会いしたことがある。2004年、お亡くなりになる半年前のことだった。長野の技術史・民俗学関係で共同研究をしようという打ち合わせだったが、実はその頃山崎さんは闘病最中であった。


著者略歴「昭和40年長野県小布施町に生まれる。短大卒業後民間企業に就職するが学芸員の夢を捨てきれずに通信教育で資格を取得。高井鴻山記念館勤務を経て平成2年より…あかり博物館学芸員となる。「あかり研究」のスペシャリストとして活躍するも平成17年3月39歳の若さで逝去」


この一冊は本文282頁、館報・附録148頁の堂々たるもの。日本のあかりとその民俗に関わる事項が詳細にまとめられている。よくぞここまで調査、執筆されたものと、今頃になって山崎さんの偉業に頭を垂れた次第である。附録の博物館ニュースには山崎さんの手書き文字編集もあり、涙。


以前ここを訪れた時に、この遺稿集は無かったから、昨日、在庫がちょうど出ていたのであろう。幸運であった。「アッ、山崎さんの…」と呟いたら、カウンターの学芸員の方が「山崎のことをご存じで? …それは本当にありがとうございました。彼女も喜ぶでしょう」とお礼を言われた。
(2011.09.30.)


遠山霜月祭


長野県飯田市内、遠山郷の霜月祭は各集落ごとの神社で行われる、冬至の湯立神楽。冬至は生命復活を象徴する時期。写真は、上村伝承館の天伯神の装束。 http://t.co/diZTK8tg


湯立神楽は面を付けた神々の舞、そして大釜で沸かした湯を火の神・水の神が豪快に手ですくって皆にかける。祭の起源は鎌倉時代に遡るとも。鎌倉八幡宮の神事の類似もある。両部神道に依拠するが神主の歩き方が陰陽師と同じで驚いたし、二十八宿などの星座も祭られ、天文も関係ある。


戦前、この祭を本格的に紹介したのは、国学院の教授であった西角井正慶。珍しい苗字だが、大宮氷川神社の宮司の家系の方。びっくりしたのは、家族の出た中学校の校歌を作詞したのもこの人で、まさか遠山郷で大宮の人の名前を見るとは思わなかった。


広い遠山郷に点在する集落ごとに、神事を行う板敷き広間を備えた神社がある。祭は舞を中心として火をくべた竈の周りで一晩中続く。私はまだ現場を見ていないが、ビデオで見ただけでも不思議なトランス状態になりそうな舞とお囃子。


この祭では多様な面が用いられる。集落ごとに色・表情が異なる。和田の郷土資料館に200面以上のレプリカが展示されていて圧巻。能面とは違う独特の悲哀と郷愁を持つ面である。ただ地元の方に聞くと、後継者不足で祭の維持は大変になっているとのこと。


現在、地元で精力的に祭の調査をされているのは飯田市の学芸員の桜井弘人氏。私の知識も氏から教えられたもの。祭は観光客も見学できる所があり、臨時の宿泊所などもある。情報は飯田市のHPなどから。 
(2011.10.01.)


遠山氏のこと


遠山郷を中世から近世初期に領有していたのが遠山氏一族。だが、近世初期に改易されてしまう。だが生き延びた子孫は後に、歴史的な有名人を出す。そう、遠山の金さんです。


遠山氏の居城は現在の南信濃和田地区、龍淵寺敷地にあったらしい。その一角に平成2年に建てられたのが、郷土資料館。外観は隅櫓風。展示品は、何と遠山氏のご子孫から寄託された宝物の数々!飯田市街から50km車を走らせても一見の価値ある展示です。どんな物があるかというと…


…一部を紹介。甲冑、武具・慶長大判!・古伊万里、古九谷の陶器・漆器、青貝細工・狩野派屏風・徳川光圀(水戸黄門)、徳川斉昭(慶喜の父)の真筆・などが所狭しと。眺めるだけで一、二時間は堪能できます。歴史ファン、アンティークマニアにはお薦め。これがたったの300円! 
(2011.10.01.)


大学の講義あれこれ


講義終了。2、3ヶ月ぶりに90分を喋る。文学部学生が160人ぐらい。マイク無しの大声で話すので、健康には良いはず、と思っている。毎年、学生の感想で「先生はよく声が通りますね~」と何名か書いてくるが、昔から大声を出していたのでそれだけのこと。私語がほとんど無いので、やりやすい。


大学の講義でいつも悩むのは、「何を語るべきか」ではなく、「何を語らないか」の選別。こちらがすべてを語れば、学生はそれ以上自主的に調べない。しかも、彼・彼女たちが、話を聞いている間にこちらが語らなかったことを疑問として持てるよう誘導する話術が欲しい。


それで、学生の書くコメント用紙が参考になるわけだが、教師成り立ての頃は散々だった。話が伝わっていない、情報を盛り込みすぎて混乱させるなどの連続。最近になってようやく、学生の出してくる質問がこちらが意図する内容に接近するようになってきた。10年はかかったかな (^-^; 
(2011.10.13.)


そういえば、昔話として国文の市古貞次先生に聞いた所では、本郷の噴水付近に戦時中はキャンパスで暮らしていた先生たちがカボチャやサツマイモを植えていたらしい。国文法のA教授、ギリシア哲学のB教授たちが、朝に味噌汁の具となる野菜を交換していたのは情けなかったと、市古先生は言ってたな…
(2011.10.14.)


岡山古書探訪


岡山市を単独行動。シンフォニーホールの1階で、古本市をやっていたので迷わず没入。掘り出し物、数点。


明大内藤家文書研究会編「譜代藩の研究」、八木書店は、学生時代にコピーした思い出の一冊で。格安本に巡り会い、感動の涙と共に購入。和算家を数名召し抱えていた内藤藩の研究書。


一番の掘出物はこれ。大政翼賛会興亜局「蒋政権下に於ける暦書に表れた思想宣伝記事」他3冊の「暦法調査資料」パンフレット(昭和17~18年)。天文学史の解説資料で内一冊には、表紙に「秘」の文字が!すごいなあ、これ。 
(2011.10.22.)


午後の講義の予習。全くの専門外だけど、日本の幕末から明治初期の産業技術を語る回を設定。内田星美先生の総説はありがたい。惜しむらくは、内田先生が2005年に逝去されたこと。生前、もう少し機会を見てお話を伺っておくべきだったとつくづく悔やまれる。
(2011.10.26.)


昨日の仕事の残務処理をしに出勤中。それから学会機関誌の編集委員会へ行く予定。そういえば、震災以後、注の付いた文章を書けていないなあ… そろそろ元に戻せるかな。本も書けそうな気になってきた。
(2011.10.06.)


東大にて


震災で中断していた科研の図書館調査を再開するため、東大の総合図書館で打ち合わせ。来週から再び、近世科学史関係史料を調べ始める予定。自分の本職ってたしかこれだったんだけどね…


2年ぶりぐらいに行った東大の総合図書館のカウンターで、以前お世話になった方と4、5年ぶりぐらいにお会いした。「あらー、佐藤先生、ちょっとスリムになったんじゃな~い」と彼女におだてられて、ちょっと気分が明るくなった能天気な午後でした。 
(2011.11.10.)


東京古典籍会(オークション)


午前中は神田に行って、古典籍のオークション下見。花火資料はどうしようかなあ、と迷い中。本命は呟かないでおく。


オークション、2点入札(打合)終了。2点とも当たると破産かローン地獄に。でも入れてしまうんだなあ。因果なもので… 「先生の分野の本は、値段の予想が全然できないんだよね」と、業者さん。そりゃそうだろうなあ~ こちらの言い値が資料のその後の基準になる可能性が高い訳だから (^-^;


お市の方の手紙と言われる出品も見た。一紙を軸装したもの。素人目には紙質と筆は室町末かなあ、と見えた。肝腎の署名は、末尾一文字ただの「い」。文中の特定人物を呼び捨てにしているので、筆者をお市に推定したらしい、という声が会場で聞こえてきた。


入札はしなかったが目を引いた出品は「備前国上道郡各村絵図」1幅(大道寺忠筆・天保4年)一見して、精密測量して描いた村絵図であることが分かった。幕末では類例を見ない絵図。地域と時代から推測して、大道寺は和算家・小野光右衛門一派かもしれない。もう一度見に行こうかなあ 
(2011.11.11.)


落札品


先週末の古典籍オークション、入札した二点、共に落札した。それぞれ、落札希望価格の二番目の値段で落ちたので、それなりに競ったのだろう。とりあえず、財布は寒くなるが、気分的には安堵。


落札品、一点目は「大工計墨曲金之次第」。江戸時代初期の本、とカタログは記すが、紙と墨を見ると室町末の可能性もありそう。神社仏閣建築に必要な材木の寸法、木組みをまとめた写本。図は1つのみ。この手の本としては非常に古い貴重書。破格の安さで入手できた。


落札品二点目は「花火伝書」三種。写本、二冊と一軸。一冊には仕掛花火が説明されてるが、年紀の「寛文」は古すぎる気がする。面白いのは安永年間の秘伝巻物。打上げ花火の打ち上げ方を図入りで説明。手筒花火のような太い縄巻筒を俵に立て掛けて打ち上げたようである。この情報も貴重かも。 
(2011.11.17.)


與那覇潤先生との対話:

  『中国化する日本』について


佐藤) 先日は御著書『中国化する日本』をご恵贈たまわり、どうもありがとうございました。早速、一読いたしました。再読は、諸文献を引きつつさせていただくつもりです。再読をしたくなる通史に出会えたのは久々です。論旨明快、通底するコンセプトの斬新さに首肯する点が多くありました。


佐藤) 「中国化」と「江戸時代化」の理念をキーワードとし、諸々の歴史現象をその間の往復と見なすことで、従来の日本を取り巻く「鎖国」状況や「近代化」・「西洋化」の用語を軸とした歴史叙述をいったん解消して新しい視野を広げる可能性を得られたのではないかと思いました。


佐藤) 内容の点で。私のやっている近い分野である中国の科学技術史でも、山田慶兒氏などは宋・元代を中国史の転換点と見なしており、やはりそのあたりから「中国化」は完成に向かったのだろうな、と再確認いたしました。(山田『朱子の自然学』・『授時暦の道』)


佐藤)與那覇先生にぜひお伺いしたいのは、自分の専門(江戸時代の科学)に引きつけたお尋ねで恐縮ですが、江戸時代の人たちが海外からの眼差しをどのように受け止めていたのか、という点です。当時の人たちは「中国化」への志向を海外に求めていたのか否が気になりました。


佐藤) (連投陳謝)第四章では寛政改革を主として取り上げられていましたが、吉宗による享保の改革に対するコメントも是非取り上げていただきたい内容です。大庭脩氏の一連の研究が私のネタ元になのですが、江戸時代中期の将軍主導の「中国化」政策についての評価はいかがでしょう。


先生) ご紹介ありがとうございます。いまアクチュアルな問題への切り口になれるなら著者冥利、&「気分としての陽明学」の原典はむろん小島毅『近代日本の陽明学』です。また江戸時代についてのコメント、重い宿題をいただいたと感じておりまして、後日落ち着いてからお返事いたします!


佐藤)どうもありがとうございます。咄嗟の思い付きを並べたて、恐縮です。3.11以後の展望に及び、さらには被災地の写真を使って頂いたこと、本当に励まされる思いで読了いたしました。 (2011.11.24.)


先生) いえ、とんでもないです!実は、最初の草稿は震災前にできていたのですが、いま震災に触れないで出すわけにはいかないので、特に序論と結論を手直しするうち、むしろ「震災後だからこそ」こういう視点も必要なのではと思い始め…そんなものでもお役にたてるなら本当に幸甚です。


佐藤)そうでした、何度も校正されていらっしゃいましたね。今回の震災では、人間が完全に自然の中に放り込まれ、「自由」になった時に何が起こるのか、情け容赦無く見せつけられました。「中国化」の実証例だと、率直に思えました。


先生) 重ねて恐縮です。Anarchical Societyは普通は「国際社会」を指す比喩ですが、実はその縮図が(近世以降の)「中国社会」なのかもしれず、それを忌避し続けた日本もついに、内外両面から近い秩序に入って行きつつある、その最後の決定打が震災であったのかもと…


佐藤)同感ですね。秩序やコミュニティーといった概念の、日本人の理解が一気に流動化してしまった、あるいは反省の転機を迎えたような気がします。(2011.11.25.)


先生) …さて、いい加減 @ke_1sato 先生や @****** さんにいただいたご批判へのお返事もしたいのだが、Twitterは流れていくから数日前のものでも探し出すのが面倒である。「あ、あのツイートどこだっけ」を検索しやすくしてくれれば便利になるのだが…


先生)ご指摘ありがとうございます。拙著の弱点の一つは「江戸時代と儒学(=中国化思想)」の関係を単純化しすぎているところ。要は、江戸=「非」儒教社会論、を暴力的に大雑把に書いて「寛政異学の禁」以前を括っていますが、近年だと綱吉・白石あたりにも一つの小画期を見るようです


先生)渡辺浩先生の『日本政治思想史』だと、吉宗のブレーンを目指した荻生徂徠は反市場・反近代の封建主義者ですが、拙著の定義では「反中国化」に儒学を奉仕させた形になるのですよね。しかし、そっちこそが「真の聖人の道」だと考えていたことをどう捉えるか RT @ke_1sato 吉宗の享保の改革


先生)実は宮嶋博史先生にも『思想』2010年1月号で、拙著の元論文に対し「儒教には市場化に歯止めをかける農本主義的要素もあるのでは」とのご批判をいただいてます。で、これを網野=勝俣ラインに沿って捉え直したのが、 http://t.co/khnIIgcb の後段です。


佐藤)コメント、どうもありがとうございます!私も渡辺先生の論点から示唆を受け、江戸時代前半の儒教の位置付けはそのようなものとして科学史の文脈に当てはめて考えてきました。もう一つの役割は幕府の儀礼・権威を補強する役割としての儒学かな、とも。


佐藤)儀礼・権威の補強のために使われた中国化アイテムとしての儒教的発想は、天子の専権事項である「改暦」事業をいわゆる江戸の三改革(享保・寛政・天保)で実践したことが挙げられるのかな、とも考えています。あまり政治史や科学史で正面切って取上げられる主題ではないですが。


先生)なるほどです。ちょうど明日読む小島毅先生の信長論も暦の話、参考になります... RT @ke_1sato 儀礼・権威の補強のために使われた中国化アイテムとしての儒教的発想は、天子の専権事項である「改暦」事業をいわゆる江戸の三改革で実践したことが挙げられるのかな、とも考えています


佐藤)ともあれ、丁寧なコメント、どうもありがとうございました。皇国史観ならぬ「高校史観」の打破という一点でも、強烈なインパクトを持った一冊になるとあらためて実感いたしました。
(2011.11.28.)



読書:隠岐さや香
  『科学アカデミーと「有用な科学」』


今、隠岐さんの本を読んでいる。素朴な疑問をメモ。17世紀にイエズス会士たちがもたらしたアジア情報は、フランスの官僚社会と学者社会に影響は与えなかったのかな…


隠岐さん本。1680年代にフランス全土の地図作製令下る。江戸時代同時期の日本でも、オランダから導入した平板測量程度の技で、やはり全国図を作製。測地学と公権力の関わりの分岐点なんだな、東西で。


そうか、フランスの宮廷にも「御目見」できる人、できない人の区別があったのね。「ロイヤル・タッチ」の時は特別?あれは中世的な遺風?


知識や言説を扱うアカデミーすら「職能中間団体」として王権の許認可の元に置かれ、結局は知の公共性・公開性が担保された構造。科挙官僚知識人社会(中国)、武家・公家の認知外にあった知識人社会(江戸期)とはやはり違うなあ。


「君主への奉仕」と「公への奉仕」の分離・止揚・統合は重要だな。(アジアには希薄な発想かも…)産業・技術に関する言説は後者と親和性が高いわけか…


「有用性」は誰にとっての有用性を想定して、発言されているのか、その変遷も歴史性を帯びるのではないか?パトロン、王、国家、職人、「国民」、個人、人類?… (2011.12.03.)


アカデミーと連携、関与していくことになるフランスの技術系官僚組織の系譜についての基本的説明があっても良かったかも。江戸時代の日本だと、プロジェクト組織のトップが雇う「手代」たちが特殊技能の担い手になるのかな。


アカデミーの持っていた「文芸共和国」としての理念は、江戸時代の家元制に非常によく似ている。身分制の中に出現した平等空間。


18世紀までフランスも商業軽視、行政秘密主義。江戸もそうかな… 違いは、武家政権には法務官僚がいなかったこと、意外にも度量衡の単位系は拡散せず、少数種に集約されていたこと。


七年戦争がフランス技師界の状勢をいっぺんさせたわけか…(フランスはどこに負けたんだっけ?…)土木はだから「シビル・エンジニアリング」なんだよな。この辺の記述があれば、より親切かも。


イギリス的な政治算術と、会田安明の『算法政談』は似て非なるものかどうか。社会統計+合理的意思決定、と、一方は、和算+経世済民、という対比かな。


1740年代フランスのアジテーションに見る「学者」のありかたは「引きこもるな!」ということね、なるほど。中国の「聖人」と西欧の「哲人王」概念は何がどう違うのかなあ…


確実性・明証性を主軸とするエートスから生じた確率論や蓋然性の議論。18世紀の文脈で、確実性の枠からはみ出た不確実性の領域を、確実性の象徴たる数学で取り扱う事に抵抗は無かったのかどうか。


1789年の革命以後の科学技術方面での刷新内容が、旧体制期からの蓄積・萌芽によっていたことは自明かもしれないが重要。技術移転で改革を導いた明治維新とはこの点で対照的。


ダランベール派の貧乏物語、哀れ。。 (2011.12.03.)


隠岐さんの講演会@駒場、終了。盛会でした。時間超過して議論。歴史研究の王道を押さえ、課題設定が的確だと、発展的な議論や新しい課題も芋づる式に出てくるもの。後輩諸君にも良い指針になったと思います。さて、これから調布。
(2011.12.05.)


しまった!川村孫兵衛の墓って、石巻工業港のすぐ裏にあったのか!!
(2011.12.07.)


昨日は東京で自分が事務局をしている学会の大会があったので、どうしようもなかったが、同じ頃、神戸市博の勝盛さんの國華賞受賞記念祝賀会が京都で行われていた。電話でお祝いを申し上げた。いやあ、勝盛さんはやっぱりすごいなあ。
(2011.12.12.)


岡山訪問


今回の岡山訪問は、金光学園で中高生向けに和算の話をするため。金光教の教祖が若い頃に学問を習ったのが和算家の小野光衛門だったことから、こちらでは小野の和算資料や暦学資料が大事にされている。何度か調査させていただいたご縁で、今回の講演会。


江戸時代の国絵図などを見ると、村の描かれている密度が地域によって差が歴然としていて驚かされる。東北・九州はスカスカで、瀬戸内沿岸は村の記号がビッシリ描かれている。当時の経済、産業の実態をある程度反映しているんだろうなあ。

江戸時代の地域の流通圏や通婚圏は海路や水路を中心に考えないといけないんだろうな、と瀬戸内を歩く度に思わされる。


江戸時代の瀬戸内の産業といえば製塩を忘れてはいけないが、塩田跡地はほとんどが工業用地化されてコンビナートなんかになっちゃったんだよなあ~


近世初期の数十年の間、全国各地に相当な規模の城郭が多数建造された。それを支えた石材と労働力の確保(全国規模)の実態はどうだったんだろう?職人集団だけでは、とても無理じゃなかろうか?彼らはやはり監督的位置付けなのかな。


津山城の石垣の石材には、職人が自分の担当したことを示すマークがたまに残されていることを津山の教育委員会の方からお聞きした。職人集団ごとの分担やら支払いの際の取り決めがあったんだろうなあ。どこかに文書記録、残ってないかな。こういう技術史の情報って残りにくいんだよね。。。


岡山は市街地とお城付近の歴史的自然景観がよい具合にバランスを満たしていると思う。旭川の堤防に立って見る城の姿はいい感じ。この町で育つ子供たちは、生涯の記憶に残るいい思い出の場所を、たくさん持っているような気がする。 
(2011.12.12.)