凡例



・2011年2月12日~2012年3月13日までの間にTwitterで呟いた、歴史学、科学史、大学での講義といった、アカデミックに関わる話題をまとめたもの。

・末尾の数字は呟いた日付。

・個人的なメモがほとんどの内容。出典は必要最低限の文献名のみを提示している場合が多い。

・誤字脱字、若干の訂正を施した箇所がある。


本文


再び芦東山記念館


今日は先月に引き続き、一関市大東町の芦東山記念館で調査。元禄年間に書かれた大工向けの指示書(雛形)があったので、それを熟覧の予定。それから新しく出てきた和算書。やはりこの地区は凄まじいまでの向学心の高さがあったと実感する。後から後から和算書が出てくる。


今日も幾つか和算史料を見たが、明治になってから、西洋天文学の知見と関流和算を豪快にドッキングさせたものは初めて見たなあ。ついでに、関孝和の伝承が見事に的を外してるし。まあ、数学の内容はまともだから良いのだが。


【特別展】芦東山記念館、「一関市大東の文化財」、3月4日まで。中世の鉄製鋳造十一面観音立像、南北朝期作の前立、蕨手刀、芦東山書「百寿」、『天文平天儀』、他を展示。/今回の震災の難を逃れた文化財でもあり、貴重な地域資料の数々です。 
(2012.02.12 - 13.)


目黒の都立写真美術館で、フェリーチェ・ベアト展。面白そう。毎年、技術史の講義で彼を紹介するが、幕末・明治初期の日本を撮り続けた漂泊の写真家。日本人が忘れた日本の姿を見られるのが魅力。なお、ベアトは没年不明。ビルマの奥地で家具販売をしていたのが最後の消息という不思議な風来坊。
(2012.02.13.)


神社に奉納する絵馬って、平安時代ぐらいまでは本物の馬を奉納してたんだけど、後になるほど手抜きと節約のために、絵にかえられちゃいました。バレンタインのチョコもいずれ面倒になって、「絵チョコ」や「チョコメール」のやり取りになってしまうことでしょう。
(2012.02.14.)


今日、天文台で見た中国の暦算書、『数理精蘊』の対数表の冊子には、「明時館図書印」の蔵書印があった。これは幕府の天文方、渋川家の蔵書印。紛らわしい冊子構成の中に一冊埋もれていた。対数表を彼らも見ていたことは知っていたけど、とりあえず、現物史料が出てきたということで、落着。
(2012.02.16.)


江戸時代のコンパス


先日買った江戸時代の測量術史料の話。製図用具のコンパスは外来語として既に定着していたが、紙面に次の語句が書いてあり眼を疑った。コンパスのことを「阿蘭陀ニテハ円規(コンハス)ト書、フランス国ニテハ渾発(コンハス)ト書」と。うーむ、ヨーロッパで漢字使うわけねーだろ。。。

先ほどの「コンパス」の写真 http://t.co/D2fRfYav  
(2012.02.20.)


本郷の調査史料


明治の博物学者・田中芳男のスクラップ・ブックに、現在の宮城県石巻市渡波地区で採られて製品化されたきんこ(ナマコの一種)の缶詰(?)のラベルがあった。そのラベルの英文表記では、渡波のことをTONAMIと書いている。昔は「となみ」と読んでいたのかな?。。。


今日見た資料。国学者・小中村清矩(1821-1895)関係資料。『故事類苑』編纂で知られる小中村の旧蔵書が東大総合図書館に収蔵されている。雑文の草稿、明治初期の官庁(文部省・教部省etc)文書の下書、写しなど多数。特に興味を引いたのが、井上毅の草稿類がなぜか混じっていたこと。


まだ詳しく見ていないので経緯はよく分からないが、井上毅の草稿類を小中村が多数所持していた模様。一点だけ紹介すると、井上のメモ書きで「大坂 途上行倒死者ノ比較」というものがあり、明治17年度の行倒れ死者は97人、明治18年度の死者は362人とある。さらに、。。。


明治18年から19年にかけての調査と思われるデータとして、大坂警察署管区内に乞食が17,276人、赤貧が44,353人いたとも記されている。この時、大坂で何があったのか?淀川水系で大規模な洪水被害があったとのこと。どうもこれに関わるデータのようである。(F田さんご教示多謝!)


それにしても田中芳男といい、小中村清矩といい、明治初期の学者たちの資料収集量はハンパじゃない。博物学の田中、国学の小中村。小中村関係資料の中には全国の神社の由緒や縁起を集めた資料も紛れ込んでいる。一部研究者の間では著名であろうが、彼らの総合的な研究があると面白いかもしれない。 
(2012.02.17.)


旧暦の話


今日は2月29日ということで、4年に1度訪れる一年の日数の「端数」につじつまを合わせる日。これが、江戸時代まで使われていた旧暦(太陰太陽暦)だと、1年=13ヶ月の年を作って季節と暦にずれが生じないようにしていました。今思うと、豪快なまでの日付操作です。


旧暦の話のついでに。1年に13ヶ月ある年の余計な月を「閏月」と言います。月の満ち欠けで1ヶ月を計ると29日か30日。それを12倍すると大体354日しかならず、太陽の公転周期で計った1年=約365日との間に毎年11日ぐらいのずれが生じてしまうわけです。そのずれを直すのが閏月。


問題は、どのタイミングでその閏月を設定するか。季節の目安として立春、雨水……といった24節季があります。1ヶ月の間に24節季の2つが入るように旧暦は設定されていますが、たまに1つしか入らない「変な1ヶ月」が発生します。これを「閏月」とするわけです。


以下の話は暦研究者・岡田芳朗先生の本にも載せられているものだが、日本が旧暦から今の太陽暦に突然変更になった裏の理由。(明治6年のこと)当時から明治政府の官僚は月給制。ところが閏月が入ると1ヶ月分余計に支払わねばならない!そこで経費を節約するために太陽暦を採用したと。


この太陽暦採用を決断したときの責任者は大隈重信。一方、突然カレンダーを変えられた庶民は大迷惑。「太陽暦って何だ?」ということになって、『改暦弁』というパンフレットを書いて大儲けしたのが福沢諭吉。いやあ、こんな所で早慶の創設者がペアになって出てくるなんて。面白い歴史。


月の満ち欠けで1ヶ月を計るとハンパな数になるので29日(小の月)か30日(大の月)にします。この大小の月の現れ方も不規則。江戸時代までの人々は、来年が何日あるのか、1ヶ月はそれぞれ何日あるのか分からない状態で、年末に幕府公認の暦が出るのを待っていたわけです。


江戸時代の商いは月末締めが多かった。そこで、今月は大の月なのか?小の月なのか?が重大問題となる。特に金貸し、両替屋などは切実。誰が考えついたかは知りませんが、店の前に大きく「大」と「小」の文字を裏表に書いた看板をかけて見分けるようになりました。


「大の月」と「小の月」を見分けるための看板。2006年に佐渡島で撮影。 http://t.co/cxQmgq3F


こちらは裏の方で「小の月」を表します。 http://t.co/fv0m3V4w


1年の日数が毎年変わり、月の大小も分からない。そんなことで江戸時代の人は「予定」を立てられたのか?閏月に生まれた人は一生の間に二度と誕生日を迎えられないのではないか?そんな心配は無用でした。祭などの行事は大体動かない日付に設定し、正月元日にみんな一斉に年をとる。


江戸時代の暦を実質的に作っていたのは幕府の天文学者。一方、民間にも天文学者はいて、年末になると来年の暦を自分で計算して、幕府公認の暦と照らし合わせて楽しんでいる人が結構いました。日食の予報では、民間の学者の方の計算が当たって、幕府が赤っ恥をかいたこともありました。


ある年代記史料に全く「閏月」の記載がないのは不自然ということで偽物とばれてしまったケースがあります。それから「暦」は消耗品です。皆さんも去年の暦など持っていませんよね。もし蔵の中や押入から古い暦が出てきたら、現代の物でもぜひ大事にとっておいて下さい。貴重な資料です。


ありがとうございます!お手数おかけいたしました。 RT @hashimoto_tokyo 【佐藤賢一先生による「閏月」解説】をトゥギャりました。佐藤先生 @ke_1sato は江戸時代の科学史がご専門です。 http://t.co/rKiGPMsG


岡田先生の『明治改暦』(大修館書店、1994年)が参考になります。 http://t.co/rKiGPMsG  
(2012.02.29.)


幕末や明治初期に、下岡蓮杖やF.ベアトが撮影した古写真を見るのが好き。当時の人々が生き生きと写されている。特に、写真の中で無邪気に笑う子供たち。この後、この子達はどんな人生を送ったのかな、と、ふと考える。激動の時代を無事に生き延びただろうか、と心配してしまう歴史家の性。
(2012.03.03.)


国絵図の研究会


おはようございます。今日は本郷の史料編纂所で国絵図の研究報告会。日本史・地理学史の方々に混ぜてもらって参加している「外様」(笑)ですが、異分野交流はやはりいいですね。今日は拙文を収録してもらった『絵図学入門』が論評もされるのでドキドキ。


東大、福武ホール地下。これから、科研基盤(A)「地図史料学の構築の新展開」(代表・杉本史子)の研究成果報告会に参加中。しかし、まあ、分厚い報告書になったもんだ。 (^-^)


科研メンバーと飲み会終了。代表の杉本先生と、東文研Y氏、芸大A先生と。全然バック・グラウンドの違うメンツと飲むと楽しいですな。まさか、自分の生涯で最近、こんなに芸術関係の皆さんとお近づきになれるとは思ってもいなかったので、ありがたいことです。やっぱ芸大は普通の国立大と違う。。。 
(2012.03.07.)


小中村清矩史料


今日、本郷で見た史料。前回と同様、国学者・小中村清矩の関係史料を調査。彼は、明治10年代の後半、東大教授(古典講習課)であったが、その時、法学部・国書課・漢書課の学生に課した、学年末・学期末の試験問題が出てきた。小中村、自分の出した過去問を使い回ししてるww 今と同じだな。


小中村が明治17年6月に法学部学生に課した試験問題の一部。令義解などに基づく法令沿革。「男子所授ノ口分田二段ノ収穫ト田租ノ高トヲ今升ニ比量セバ如何…令ノ大小尺ヲ今ノ曲尺ニ比量セバ如何」など。古来の度量衡の知識を問う問題がオンパレード。これって、日本初の科学史試験問題じゃない?


この問題が収録されている雑書類のまとめは、『東京大学国書課関係書類』(A00-6153)。当時は公文書だろうが下書きだろうが、自宅に持ち帰ってたのかなあ。小中村の蔵書印を押した東京大学の原稿用紙がやたら多い。学生の試験成績を原簿に付ける前の下書きなんかもあった。


(自分が面白いのでメモ)小中村は官報に基づく情報で、明治25年末時点で人口が5万人以上の「市」を抄写している。全国41市の内17市が該当。以下、その内訳。/「東京 1,237,592人」「京都 307,251人」「大阪481,104人」「名古屋 180,198人」


「仙台 64,942人」「金沢 91,201人」「冨山 58,460人」「広島 85,430人」「和歌山 55,340人」「徳島 60,956人」「福岡 53,691人」「熊本 54,068人」「鹿児島 56,066人」「横浜 143,608人」


「神戸 148,519人」「長崎 62,138人」「新潟 49,258人」(新潟だけ5万人以下だが。。。)原文は漢数字で表記されている。個人的には明治25年の都市の規模が分かってありがたい。小中村が最後の4市としてまとめているのが国際貿易港であることも興味深い。 
(2012.03.13.)