【最新版】ソウルメイトを引き寄せる方法 | ~毎日を天国モードにする!「引き寄せの法則」ブログ~

【最新版】ソウルメイトを引き寄せる方法

 

浮気と不倫が発生する一番の理由は、元々パートナーが運命のソウルメイトでは無かったから。

 

でソウルメイトで無い方がパートナーとなると以下の様な事があります:

 

胸がぐらつく - パートナーと永遠の愛を誓った物の、世の中には他にも魅力的な人物は無限にいます。従ってパートナーがいるのにも関わらず胸がぐらつき、色んな誘惑に負けてしまう。

 

愛が色褪せて行く- 特に何かを頑張らずに得た物は、次第に失われて行きます。例えば若さは生まれつきの物なので、年齢と共に失われて行きます。

 

それと同じ様に、特に意図的に愛を引き寄せる事を頑張ったのでは無い中で愛が芽生えた場合、その愛も時間と共に失われて行く可能性があります。

 

特に年齢と共にお互いの魅力も失われて行くと、何か問題がある際に許しにくくなり、それが愛の減少に繋がって行き、新鮮な愛を求める様になります。

 

一般的に言うと、浮気する必要性を感じない様な正真正銘のソウルメイトを引き寄せるには、ある程度の準備が必要です。

 

いざ運命の人にあっても、心のぐらつきをどうするのか?

 

本当に長い人生をたった一人の人とだけで満足して過ごして行けるのか?

 

生涯後一人の人としか夜を共にしないのって、クレイジーじゃない? そんな事本当に出来るの?

 

答えはとても皮肉な事に、とにかく色んな出会いを経験する事なのです。

 

最近気付いたんです。

 

日本に来てから自分は色んな形で、それこそ星の数程の若い女性達と出会う機会に恵まれました。中にはプロポーズする人達もいれば、森ちゃんやサトシちゃんと呼んで親しんでくれる人達もいました。

 

街を歩いていても、ある女性達の事と思い出を、1日たりとも考えない事はありません。

 

街中の色んな場所で「桜」と書いた看板を

見る度に胸を痛める事もあります。

 

雨の日とかにZARDの隠れた名曲「遠い日のNostalgia 」の歌詞を聴きながら、強く共感してしまいます:

 

「あの日言えなかった言葉は今も、この胸の中に眠ってる。あの時もう少し、勇気を出せば、君を失わずにすんだかも。It's too late. 遠い日のNostalgia 」

 

笑いが止まらない程楽しい時も、本当に涙を流した時も、全ては有意義な体験で、実はソウルメイトに出会う旅路の中の重要な一章でありました。

 

貴重な人生経験や学びを得るだけで無く、何よりも数え切れない程の人達との出会う事が、ソウルメイトに出会う為の土台を作る事だったからです。

 

数百とか数千単位の人達と遊んだ事のあるロックミュージシャン達がこの様に言う事があります:

 

「もう愛のないセックスは嫌。本物の愛を求めたい。」

 

自分はその様なロックンロール的な遊び人ライフを経験していないですが、気持ちが凄く良く分かります。

 

例えば昔毎日コーヒーとお酒を飲んでいて、ある時から、「もう無くても十分エネルギーがあるし幸せ」と思い、それ以降は一切口にしない。

 

そしてそれは一生続いて行きます。

 

流れ的にソウルメイトで無い人達に関しても同じ。総合的に数百単位の色んな形の出会いを経験した後、もういいやと思える様になるんです!

 

言い換えますと、街中で魅力的だなと思う人を見たりしても、気持ちが全くぐらつかなくなるのです!

 

街中で昔良く飲んでた甘いモカやフラペチーノを飲んでいる人を見ても、自分の気持ちは全くぐらつきません。むしろ、その様な物を何故飲みたいと思う人がいるのか、不思議で仕方ありません。

 

なので男女関係に関しても同じで、数十とか数百の出会いを経験すると、突破口があります。

 

その突破口を超えると、もういいやというか、余り正真正銘のソウルメイトパートナー以外は興味無くなります。

 

今での人達が舞台のキャストだとすると、皆後ろに下がり、照明が暗くなり、見えなくなる。

 

そして舞台の表にスポットライトが当たる主役が登場する。

 

ソウルメイトを引き寄せる旅とは想像より遥かに壮大で、全体図が見えると、全ての詳細に意味があった事が明確になります。

 

朝目覚めと共に「今日は凄い物が来るぞ。もしかしたら今日が運命の出逢いの日かも」と思いながら、毎日が空回りに終わった数年間。

 

しかし実は全然空回りじゃなく、凄い物が来ると言う朝感じた気持ちも嘘では無かったのです。その日あった、ソウルメイトでは無い人達と過ごす時間が「凄い物」だったのです。

 

そして引き寄せの法則がその為の舞台を届けてくれていたのです。引き寄せの法則が自分を見離していると思った日々でも、実は最高の味方だったのです。

 

ですので願望を実現したくても現実は無情な程に変わらないと思っている時に言い聞かせる事: 

 

今いる場所で、今日体験して行く事は、自分にとって役に立っているのかどうか?

 

今日学べる事はあるのかどうか?

 

ソウルメイトを欲しいと切実に願っていると言う事は、まだ冒険の途中である事を意味します。欲しいと思っている時点で、まだ下から目線で夢を見ているのですから。

 

これを引き寄せの法則の先輩みたいな人に指摘された時はムカつきましたが、実際その通りです。その時のそんな自分にかける言葉は、「とにかく今日出来る事と、引き寄せられる範囲内の事を楽しもうよ。」

 

気持ち的に満たされ、「大満足」とか、「ワクワクする」と心から思えれば目的地に辿りついた事を意味します。

 

そこに着く迄、今日学べる事、体験出来る事を積み重ねる事により、ゆくゆくは何か起きなくても「本当に幸せ。夢が叶って来た」と心の中で明確に分かる事が出来ます。

 

そしてそのタイミングで色んな気付きもあります。例えばある漫画で、恋愛に関してリア充している人達が次々に処分されて行くストーリーを目にすると、「ヤベえ。じゃあ私も処分されてしまうと言う事?」そこで、まだ現実で何も発生していないのに、いつの間にか自分はリア充枠に入っている事に気付く。

 

又、街中で遭遇するカップルに関しても、それまでは「どうせ依存症組でしょう」とか、「全然引き寄せの法則を頑張って無いのに何でこんな簡単に付き合えるの?」などのネガティブな考えが湧いて来たのに対して、「おっ!君達も頑張ってね!」と思う様になっている自分がいる。

 

自分は週に何度か30分ランニングマシーンで走るのですが、最初の5分位が一番しんどいです。

 

中間地点の15分を過ぎた辺りから楽になり、むしろ楽しくなり、気持ち的に下り坂に変化します。

 

願望実現の冒険も同じ様な体験で、最初は色々しんどく、「今日も何も嬉しい事は無かった。街中の魅力的な人達は無関心。空っぽの気持ちで家に帰る。」など思っていた時期が好転して行き、手応えを感じてます。

 

引き寄せの法則を頑張る内に、次第に繁華街で綺麗な女性とすれ違うとこちらを見て来る事が1日数回あったり、ファミレスで隣の席にいる初恋位の年齢の人が獲物を狙うようかの目で凝視して来たり、近所を歩いていたら制服姿の女子が後ろから追いかけて来て、真後ろをピタリと歩いてくる(本当の話で何回か同じ様な話があります。)

 

その様な経験が増えて行くと、「今日はもうお腹いっぱい」と思えるし、自信につながって行きますし、全て引き寄せが上手く行っている証拠です。

 

更に気持ち的にどんどん楽しくなって行き、「今週はこんな物凄い変化があった!今人生で一番楽しみな事は、来週又瞑想した後にどの様な変化があり、どの様に現実も変わるのか楽しみでしょうがない!早く次の瞑想デーが来て欲しい!」

 

この様に感じれる様になると、願望実現の冒頭も当初の「しんどい。現実は頑固な程変わらない」と思う様な登り坂状態が好転し、下り坂に変化して行きます。

 

それと同時に全体図が把握出来、全ての体験が引き寄せの冒険の一環だったと実感出来ます。

 

夢の実現に向かって気持ちを高めて行くのと同時に、過去の傷を癒し、他に魅力的な人達が現れても、ぐらつかなくなる様な状態になれる様に自分も磨いているのです。

 

でもしソウルメイトを探している人から、「運命の人をどう引き寄せるのですか?」と聞かれると、「色んな引き寄せワークを繰り返すと同時に、ソウルメイトでは無い人と沢山交流する事」と答えます。

 

自分の経験上、引き寄せワークをしていると、そのソウルメイトでは無い人達との出逢いは、完璧なタイミングで、色んな人達が色んな形で現れます。

 

そしてソウルメイトに会っていなくても、十分満足な状態になれます。鳥肌立ったり、ドラマや歌の歌詞に登場する様な体験も遭遇するでしょう。

 

ソウルメイトじゃない人達が、ソウルメイトに会う為の近道です。そしてソウルメイトじゃない人達との交流と、引き寄せワークを並行して行う事が勝利の方程式です。

 

次第に本当にぐらつかなくなり、本当に確信が持てる様になります。その確信も初期の頃は脆いロウソクの人が、だんだんと灯台の明かりみたいに強化されて行きます。

 

そしてその確信の方が現実より重要になった時こそが本当の勝利です。

 

最低でも、「願望実現の旅は順調に進んでいる」と心から確信する時。「今いる場所に満足するのが、夢への1番の近道である」と自分は引き寄せの法則の先生(エイブラハム)から何度も教わりましたが、ようやくその言葉の意味が分かりました。

 

それと同様に、本当の先生は教えている側では無く、生徒の方こそが本当の先生であるとの言葉の意味も良く分かります。