鳥居元忠 | 戦国未来の戦国紀行

戦国未来の戦国紀行

日本の戦国時代について

 2018年末、平成最後のNHK紅白歌合戦に「刀剣男士」が「出陣」(「出演」の意の『ミュージカル 刀剣乱舞』用語)しました。

 「刀剣男士」とは、2015年にスタートしたゲーム『刀剣乱舞-ONLINE-』の世界観に基づく『ミュージカル 刀剣乱舞』(通称『刀ミュ』)の出演者です。『刀ミュ』は2部構成で、1部はミュージカル、2部はライブコーナー(刀剣男士が「現代の戦い方」と称して歌って踊るショー)になっています。このライブコーナーがあるので、紅白歌合戦に出陣して、歌や踊りを披露できたのです。

 

 『刀剣乱舞』とは、「審神者(さにわ)」(ゲームではプレイヤー)が、刀剣男士たちを「本丸」と呼ばれる場所に集め、「時間遡行軍」と呼ばれる歴史修正主義者が歴史を変えようとすると、審神者が刀剣男士(最大6振り。「振り」は刀を数える助数詞)を選んで送り込み、歴史の改変を阻止するという物語です。

 

 現在公演中の第3作「ミュージカル『刀剣乱舞』 ~三百年(みほとせ)の子守唄~」(通称『みほとせ』)は、刀剣男士が、赤ん坊(後の徳川家康)を育てるところから始まり、亡くなるところまでを描いています。登場する6振りの刀剣と、擬人化された6人の徳川家臣は、

・石切丸:服部半蔵(主人公)

・にっかり青江:「徳川四天王」酒井忠次

・千子村正:「徳川四天王」井伊直政

・蜻蛉切:「徳川四天王」本多忠勝

・物吉貞宗:鳥居元忠

・大倶利伽羅:「徳川四天王」榊原康政

になります。

 

「ミュージカル『刀剣乱舞』 ~三百年(みほとせ)の子守唄~」
2017年3月4日(土)~26日(日) 東京都 AiiA 2.5 Theater Tokyo
2017年4月1日(土)~9日(日) 大阪府 梅田芸術劇場 メインホール
2017年4月14日(金)~23日(日) 東京都 AiiA 2.5 Theater Tokyo

https://musical-toukenranbu.jp/

 

 

 『刀剣乱舞』 には、史実と異なる内容(?)もあります。たとえば、『みほとせ』の徳川家康の臨終の場面に徳川信康が出てきて、「今は掛川の百姓」だと言うのです。これは、村岡素一郎『史疑 徳川家康事蹟』の「亡くなったのは身代わりで、徳川信康は生きていて、掛川(静岡県掛川市)に住んでいる」という「徳川信康生存説」に基づく演出だと思われます。死んだ時の姿(21歳の若者)の幽霊ではなく、生きてる本人(信康は家康が18歳の時の子。生きていれば、家康の享年75-18=57歳)です。

 このように、戦国史に詳しいと、『刀ミュ』が一層面白くなります。そんなコアな『刀ミュ』ファンが口を揃えて言うのは、

 

 ──鳥居元忠(とりいもとただ)って?

 

 登場する6人の徳川家臣のうち、鳥居元忠だけが初耳だというのです。今回の記事は、そんな『刀ミュ』ファンのための鳥居元忠の紹介記事です。

 

 

 

 

『刀ミュ』ファンには、

すずき孔/監修:小和田哲男『マンガで読む戦国の徳川武将列伝』(戎光祥出版)

が「復習用」としてめちゃくちゃ売れ、「みほとせ効果」と呼ばれていると聞いて、「いいなぁ、うらやましいなぁ。私の記事は無料なのに読んでもらえない。私の記事と、どこが違うんだろう?」と思いました。(私の場合は、文を正確に書くだけでいいのですが、こういう本では、文と絵を正確にかかなければいけないので、学者さんや、歴史に詳しい出版社がバックについていないと無理ですね。)

 さて、私の記事とどう違うのか、鳥居元忠のページをペラペラと・・・たとえば、

 ──竹千代が人質時代、父・松平広忠の三回忌に岡崎に帰省した時、鳥居元忠の父・鳥居忠吉が、ためていた武具やお金を見せた。

という逸話が載っていたのですが、絵を見て、

・元服前の竹千代の髪型がおかしい。(元服後の髪型になっている。)

・お墓はどう見ても大樹寺の松平家墓所。でも、この時、行ったのは大林寺と松應寺だけのはず。

・コインの置き方がおかしい。

文を読んで、

・家康が元服後の15歳の時? 三回忌は元服(天文24年)の4年前、天文20年(家康が10歳の時)の話でしょ?

・鳥居家の蔵? 岡崎城の二の丸の隠し部屋でしょ?

と思いました。私の記憶違いでしたらすみません。(鳥居について書いたのは半年以上前ですので、詳細は忘れています。)

 

 父親の法事(三回忌)のためと称して竹千代が岡崎に戻った時、岡崎城の本丸には駿河衆とまとめ役の岡崎奉行、二の丸には岡崎衆とまとめ役の鳥居忠吉がいました。岡崎奉行(「岡崎三奉行」の1人、山田景隆)は、竹千代を松平家の宗主として認め、本丸に入るようすすめましたが、「二の丸の岡崎衆に父の話を聞きたいから」と体よく断り、二の丸に入りました。(この話を聞いた今川義元は「分別篤き少年かな」と感心したそうです。)

 鳥居忠吉にしたら、個人宅から武具やお金が出てくれば、「公的なものを盗んだ」「謀叛の準備だ」と思われてしまいますが、岡崎城の二の丸であれば、見つかっても、「戦に備えている」と言い訳できます。武器やお金があったのは、鳥居忠吉宅ではなく、岡崎城の二の丸でしょう。後掲の「東照宮御実紀」には、「古老の御家人等、是を見聞し(中略)感歎せぬはなかりけり」(その場にいた岡崎衆も、後でこの話を聞いた岡崎衆も皆、「話を聞いて泣かれるとは、仁(おもいやりの心)に篤い名君・松平清康(徳川家康の祖父)そっくりだ(成長すれば、松平清康のような名君に成るだろう)」と感動した。元信も、清康の1字をとって元康と改名した)とありますから。岡崎衆が人の壁を作ったり、見張を置いたりした中での披露だったのでしょう。

 私は現地調査して、このパターンが史実だと考えるに至りましたが、永禄3年(1560年)の「桶狭間の戦い」の後、大樹寺に入って松平家墓所で自害しようとしたが、「厭離穢土 欣求浄土」と諭されて思いとどまり、岡崎城へ入ると、鳥居忠吉が、ためてきた武具と金を見せたというWikipedia「鳥居忠吉」が採用したパターンもあります。この『マンガで読む戦国の徳川武将列伝』のような記述に近いのは、『徳川実紀』「東照宮御実紀」のパターンかな?

 鶴之助(後の鳥居元忠)が竹千代の「七人小姓」のメンバーになったのは天文20年なんです。ということは、これは想像ですが、天文20年に竹千代が岡崎へ来て、駿府に帰る時に鶴之助を連れていったということなのでしょう。さらに想像すれば、有名な百舌鳥の逸話ですが、竹千代は鷹を飼っていましたので、百舌鳥を飼っていたのは鶴之助の方だと思われます。また、この話は、駿府人質屋敷での話で、その場にいた鳥居忠吉が鶴之助を諌めたことになっていますが、江戸幕府の公式文書『徳川実紀』では、「伊賀守忠吉、駿府に附そひつかふまつりし樣にしるせしは誤にちかし。忠吉は、この頃、岡崎に残りて、御領の事、奉行してありしなり」(鳥居忠吉は岡崎城の二の丸にいて、駿府人質屋敷にはいなかった)として、鳥居忠吉は、百舌鳥の話を後から伝え聞いたのであろうとしていますが、この百舌鳥の話は、駿府での話ではなく、岡崎での話だったのではないか、そして、これが鶴之助が駿府へ行くきっかけになったのではないか? はい、単なる想像(「百舌鳥を飼い慣らした」と自慢する鶴之助に、竹千代は「飼うなら鷹。百舌鳥なんて聞いたことがない」と言ってしまった。鶴之助は「岡崎衆は皆貧乏で、あなたのように鷹は飼えない」と言ったので、岡崎衆の心(庶民感覚)を知るために、駿府へ鶴之助を連れて行った)です。

 

 

Wikipedia「徳川家康」(墓参りは元服の前とする。)

 竹千代は駿府に移され、岡崎城は今川氏から派遣された城代(朝比奈泰能や山田景隆など)により支配された。 墓参りのためと称して岡崎城に帰参した際には、本丸には今川氏の城代が置かれていたため入れず、二の丸に入った。天文24年(1555年)3月、駿府の今川氏の下で元服し、・・・

 

Wikipedia「鳥居忠吉」(武具やお金を見せたのは初陣後の「桶狭間の戦い」後であり、『マンガで読む戦国の徳川武将列伝』にあるように、初陣用の蓄財ではない。)

 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いでは家康に従軍し、今川義元の戦死後、大樹寺(岡崎市)より岡崎城に入った若き主君・家康に、今まで蓄えていた財を見せ、「苦しい中、よくこれだけの蓄えを」と家康に感謝されたという。(出典:歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P299)

 

『徳川実紀』「東照宮御実紀」(『マンガで読む戦国の徳川武将列伝』と同じく墓参は元服後(ただし、諱は「家康」ではなく「元信」)の15歳の時とするが、蓄財の目的は『マンガで読む戦国の徳川武将列伝』のように「初陣のため」ではなく、「帰国後、武士を雇うため」としている。)

 竹千代君、御とし15にて今川治部大輔義元がもとにおはしまし、御首服を加へたまふ。義元、加冠をつかうまつる。関口刑部少輔親永(一本「義広」に作る)、理髮し奉る。義元、一字をまいらせ、「二郞三郞元信」とあらため給ふ。時に弘治2年正月15日なり。

(中略)

 君、義元にむかはせ給ひ、

「それがし、齡、すでに15にみち、いまだ本国祖先の墳墓にも詣でず。願はくば、一度、故郷に帰り、祖先の墳墓をも掃ひ、亡父の法事を もいとなみ、故鄕にのこせし古老の家人へも対面仕りたし」

と仰せらる。義元も御志のやむごとなきをもてやむことを得ず、しばしの暇まいらせければ、君、御悦、なゝめならず。いそぎ三河へ立ちこえたまひ、御祖先の御墓に詣で給ひ、御追善どもいとなませ給ふ。此時、岡崎には、今川の城代とて、山田新右衛門などいふもの、本丸に住居けるに、君、仰せけるは、

「吾、いまだ年若し。諸事、古老の異見をも請べければ、そのまゝ本丸にあるべし」

とて、御身はかへりて二丸におはしたり。義元も後にこれをきゝ、

「さてさて分別あつき少年かな」

と感じけるとぞ。爰に鳥居伊賀守忠吉とて先代よりの御家人、今は80にあまれる老人なり。その身、今川が命をうけ岡崎にて賦税の事を司りしが、忍び忍びに粮米、金錢を庫中にたくわへ置く。こたび、君、御帰国ありて、普第(譜代)の人々、対面し奉り、よろこぶ事、かぎりなき中にも、忠吉は、君の御手をとり、年頃つみ置きし府庫の米金を御覽にそなへ、

「今よりのち、我君、良士をあまためしかゝへたまひ、近国へ御手をかけたまわんため、かく軍粮を儲け置き候なり」

と申ければ、君、御涙を催され、その志を感じたまひぬ。又、

「義元、三河を押領し、年頃、諸方の交戦に我家人をかりたてゝ、普第の家人ども、これがために討死する者多きこそ何よりのなげきなれ」

とて、更に御涙をながし、なきくどかせたまひける。古老の御家人等、是を見聞し、

「御年のほどよりも御仁心のたぐひなくわたらせ給ふさま、御祖父・淸康君によく似させたまふこと」

とて、感歎せぬはなかりけり。翌年の春にいたり、駿府へかへらせ給ひぬ。御名を「藏人元康」とあらためたまふ。これ御祖父・淸康君の英武を慕わせられての御事とぞ聞えける。

 

 

 まぁ、私の記事(諸説の中から「これが史実に違いない」と判断した内容)の根拠は、古文書と現地調査(伝説・伝承の聞き取り調査)なので、「史実は・・・でしょ?」と疑問をぶつけても、

「あなたが知らない古文書の記述を漫画化している」

「最新の研究成果による漫画である。ちなみに、伝説・伝承は史実ではないし、あなたが読んだ古文書は、最新の研究では偽書と判定されている」

と言われれば、ごめんなさいです。

 上で私が疑問に感じた点は、学者さんも、出版社さんも私が気づくくらいですから、当然、気づいていて、「諸説あるし、ここでは鳥居忠吉が自分のためではなく、松平家のために武具やお金をためていたことが読者に伝わればそれでよい」とスルーしたのでしょうが、私にはそんな寛容な心はないです。気になってしまう。

 気になるコインの置き方については、『鳥居家譜』に、「この時忠吉、銭を十貫づゝ束ねて竪に積み置きしを指して、「かく積み置けば、何程かさねても損ることなし。世人のする如く橫につめば、わるゝものなり」と聞え奉りしかば、後々までも此事思召し出され、銭をつむにはいつもその如くなされて、「こは伊賀が教へしなり」と常々仰せられしとぞ」(徳川家康は、コインを横積みではなく、縦積みにしていた。そして「この積み方は鳥居忠吉に教えてもらった」と常々語られた)とあります。

 

 以上、売れない作家の愚痴でした。

 私のような心の狭い人間は、社会では嫌われるので、4月1日からは「寛い心で」をモットーに行きていこう!

 

 

話がそれたけど、私の記事・・・

『刀ミュ』ファン以外も読んでね~。無料だよ~www

絵は無いけど、写真はあるよ~。

 

(注)この原稿は、2018年8月27日に投稿したもので、使用している写真は2018年8月27日以前に撮影したものです。資金不足&借金地獄で歴女はもう諦めました。4月1日からは、普通に会社員として働きます。また、資料は処分したので、質問にはお答えしかねます m(_ _)m (今回のように、ネット上にある史料はお示し出来ます。)

 

 今までに書いた本の改訂や、質疑応答はどうしようかと悩んでいましたが、「DLmarket」様から「2019年6月28日をもちまして、サービスを正式に終了することにいたしました」というメールが届きました。タイムリーです。歴女卒業=本の販売中止=今まで出版した本の改訂や、質疑応答は無しということで m(_ _)m

 

【参考図書】

・和田兼三郎編著『鳥居元忠』(大正11年)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965783

・『德川実紀』(徳川実紀第一篇) - J-TEXTS 日本文学電子図書館
http://www.j-texts.com/jikki/jikki9.html