豆腐ほど好く出来た漢はあるまい。
 彼は一見、佛頂面をしてゐるけれども決してカンカン頭の木念人ではなく、軟かさの点では申し分がない。しかも、身を崩さぬだけのしまりはもってゐる。煮ても焼いても食えぬ奴と云ふ言葉とは反対に、煮てもよろしく、焼いてもよろしく、汁にしても、あんをかけても、又は沸きたぎる油で揚げても、寒天の空に凍らしても、それぞれの味を出すのだから面白い。

 又、豆腐ほど相手を嫌ばぬ者はない。チリの鍋に入っては鯛と同座して恥ぢない。スキの鍋に入っては鶏と相交って相和する。ノッペイ汁としては大根や芋と好き友人であり、更におでんにおいては蒟蒻や竹輪と強調を保つ。されば正月の重詰めの中にも顔を出すし、佛事のお皿にも一役を承らずには居ない。

 彼は実に融通がきく、自然に凡てに順応する。蓋し、彼が偏執的なる小我を持たずして、いはば無我の境地に到り得て居るからである。金剛経に「應無所住而生其心」(おうむ しょじゅう に しょうごしん)=應(まさ)に住する所無くして而も其の心を生ずべし(金剛般若經)とある。これが自分の境地だと腰を据ゑておさまる心がなくして、与えられたる所に従って生き、しかあるがままの時に即して振舞ふ。

 此の自然にして自由なるものの姿、これが豆腐なのである

荻原 井泉水

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