ご愛読ありがとうございます。
※たくさんの資料をかき集めて編集したので、実際とは異なる部分もあるかもしれません。m(_ _)m
1962年(昭和37年) 0歳
久留米の実家
●3月10日
福岡県久留米市で母親の姉が院長夫人だった高良台病院にて誕生! 予定日より早く生まれすぎて未熟児手前(2600g)、仮死状態で生まれた。もう少しで未熟児として保育器に入れられるところだった。
父:蒲池孜(つとむ)さん 母:一子さん 兄:光久さん 蒲池家4人家族となる。 兄とは9つ差。
エピソード
父の孜さんはその赤ちゃんがあまりにもブサイクで名前を付ける気力を失っていたが、聖子を取り上げた義兄の豊田先生と上野先生が「人をリードしていく名前」の意味を持つ「法子」と命名した。
●4月
生後1ヶ月。伯母さんに抱かれて。
●7月
離乳食を始める。
●9月
早くもオムツが取れる。
6ヶ月 ようやくハイハイを始める。(庭で)
男の子みたいね。
●12月
お人形さんと背くらべ。
1963年(昭和38年) 1歳
●1月
生後10ヶ月で歩き始める。
鉛筆削りのツマミが鼻の右側の脇に刺さり、2センチくらいの傷を負う。
エピソード
病院で、傷口を縫うと跡が残ると言われ、女の子だから傷口をくっつけて直した。今はほとんどわからないが、鼻の右脇にかすかに傷跡が残っている。
●3月
健康優良児コンテストで2位入賞。
エピソード
最終審査の2人に残ったが、前日に床屋で付けられた小さな剃り傷の為惜しくも2位となってしまった。
1才で一升餅を背負いながらツイストを踊る。
1964年(昭和39年) 2歳
2歳の頃。丸々と太って可愛いでしょ?
こぼれおちそうなほっぺたです。
エピソード
フックラと太った可愛い赤ちゃんに成長したが身体は丈夫な方ではなく、風邪をひくと小児ゼンソクの発作をおこした。
1965年(昭和40年) 3歳
●11月
七五三の晴れ着姿です。
ちゃんと帯もしめて足袋もはいてお行儀よく。
1966年(昭和41年) 4歳
●4月4日 (月)
久留米市の私立高良台保育園に入園。 担任:森山久子先生。
自宅から歩いて10分くらいの所。
法子は風邪をひきやすく、それほどからだは強くなかったが、元気よく外で遊び、活発でじっとしている子供ではなかった。
高尾山へ家族旅行でお父さんと。
おサルさん、こわ~いの。
フリルのパンツ見えてるよ。
エピソード
いつも目立ちたがり屋だったが、そのくせやっぱりお母さん子で、ちょっと家から遠くへ行くと「お母さ~ん」って泣いちゃう子だった。
1967年(昭和42年) 5歳
●1月
4才のお正月。
この頃からおしゃれに目覚めたのです。
●3月10日(金)
誕生日プレゼントは欲しくてたまらなかったピアノ。
レッスンを始める。
エピソード
近所の先生からレッスンを受けていたが、しばらくして止めてしまった。 小学校で再び始める。
●6月
久留米大学で異型性肺炎と診断される。
エピソード
保育園では大きい子供ではなかったが、合唱で指揮をしたり積極的だった。
自分の折り紙を折り終わったら、他の子を手伝うという優しい子供だった。
遠足のバスの中でマイクを握って離さなかった。
家にお客さんが来ると、懐中電燈を片手に必ず歌を歌い、おこづかいをもらった。動揺はほとんど歌わず、黛ジュンの「夕月」などの歌謡曲が主。
床屋ではたくさんのお客さんの前で、「見物人は多い方がよかよ!」と言って堂々と歌った。
保育園からの帰り道。
だんだんイタズラっ子らしくなっちゃって。
でもなぜかしかめっ面。
中学生のお兄ちゃんと、家の玄関の前で。
赤いバッグが素敵でしょ?
知り合いのお姉さんと家の玄関で。
ハトにエサをあげる。この頃から動物は大好きでした。
生キズが絶えなかったオテンバ盛りの5歳の頃。
ブランコやすべり台が大好きで、外でよく遊ぶ活発な子でした。
おゆうぎ会。
1968年(昭和43年) 6歳(小1)
●1月
5歳のお正月。晴れ着姿がうれしくて緊張気味。
●3月
久留米大学付属小学校受験日に肺炎をおこしてて受験出来ず。
●4月1日(月)
久留米市立荒木小学校に入学。
1年1組、担任は執行経子先生。
自宅から子供の足で40分くらいのところにあった。
ピカピカの1年生!運動会の朝。早起きしてラジオ体操。
福岡の志賀島に家族旅行。志賀島海岸でのスナップ。
小さなお魚やカニをたくさんとりました。
親戚の結婚式で歌を披露。(右が法子)
1969年(昭和44年) 7歳(小2)
●4月
2年1組、担任は執行経子先生。
エピソード
クラスでは大きい方ではなく、前から5~6番目だった。 先生が問題を出して「わかる人?」と聞くと、真っ先に手を挙げハキハキと答えた。 算数は苦手で、真っ先には手を挙げなかった。(笑) 国語の朗読が上手く、大きな声でハッキリと読んだ。 風邪をひきやすく冬は2~3回風邪をひき、3日間休む事はよくあった。 クラスに仲間外れの子がいると、一緒に遊んだり、みんなからかばったり、思いやりのある子だった。
1970年(昭和45年) 8歳(小3)
●8月
夏休みに東京のおばさんと海水浴場へ。浮き輪は必需品!?
3年生の冬、初めて東京の親戚の家へ一人旅を経験。(羽田空港)
エピソード
お母さんがいないと何もできなかったが、小学校に入学すると少しずつ冒険心も出てきて、よく東京のおじさんの家に一人で遊びに行った。
1971年(昭和46年) 9歳(小4)
●3月
真っ白いマルチーズを知り合いの人からいただき、飼い始める。 チェリーと名付ける。
エピソード
初めは喜んで世話をしていたが、そのうち世話をしなくなりお母さんが知人に預けてしまった。 大好きだったチェリーがいなくなったショックで、一週間泣いていた。
盲腸を手術。
ドライブに誘ってくださった、お母さんのお友達の田中さんのご家族と天草へ。
1972年(昭和47年) 10歳(小5)
●4月
放送委員になる。
●9月
名古屋から転校してきた富満真美君に好意を抱く。
高校生になるまでずっと思い続けた。
エピソード
図工の時間に、先生が富満君を連れて入ってきたことをよく覚えている。法子の好みにピッタシの素敵な男の子で、彼を見たとたん一目ぼれ。これが法子の初恋です。
色はちょっと浅黒くて、背はスラっと高く、スポーツマンタイプ。郷ひろみさんと三浦友和さんを足して2で割ったような感じの子。
富満君はアッという間にクラスの女の子の憧れの的に。法子は、目が合うだけでドキドキでした…。小学校時代はデートなんて一度もできず、一方的な片思いの状態が続きます。
◆5年生の通知表より
「学習態度はまじめである。集中力と根気に少々欠ける。明朗で率直、積極的な行動をし、友人からも好かれる。少々甘ったれ、依頼心の強いところがある。礼儀正しく、人見知りしないため、誰からも好感を持たれる。困難なことに対してあきらめが早い。もう少し根性が欲しい。テストなど、良い時と悪い時の差が時折目立つ。欲が出るともう少し伸びると思う。」
1973年(昭和48年) 11歳(小6)
●4月
6年生。担任は丸山先生。
放送委員に。校内放送でDJの真似をして大活躍。
エピソード
将来の夢はお医者さんになること。
「アタックNo.1」や「サインはV」の影響でバレーボールに夢中になる。
意外と運動神経はわりとよくて、運動会のリレー選手に選ばれたこともあった。
白い帽子とクルスのペンダントが素敵でしょ?
●11月
長崎へ修学旅行。
長崎の平和公園。右から3番目の肩組みしているのが法子。
旅館の前で。
1974年(昭和49年) 12歳(中1)
●3月
お兄さんが通っていた福岡教育大学付属中学校を受験したが不合格。(荒木小から8人受験し、合格者1人)
●4月8日(月)
久留米市立荒木中学校へ入学。(お母さんがPTA会長)
中学校まで自宅から10mの距離。
担任は草場栄一先生。
3年間テニス部に所属し、2年生でレギュラーを獲得。
(法子が卒業してから新しく建て直した校舎。)
エピソード
荒木中は法子の家のまん前にあって、テニス部のコートは家の窓から丸見えの位置。
その日あったことをなんでもお母さんに話しちゃう良い子だった。
中学に入ってから、やっと富満君と少しずつ話せるようになる。
富満君はバスケット部、法子はテニス部だったけど、富満君の姿見たさによくテニス部の練習中にバスケット部の近くをわざわざ通って水を飲みに行った。
富満君の家に遊びに行ったこともあるけど、照れくさくてお姉さんとばかり話していた。
証 言
家が近いわりによく遅刻をして朝の掃除をさぼっていた。
人なつっこい子で、よく職員室に来て他の先生たちとも話していた。
憎めない子だった。
(中1、2年担任:草場栄一先生)
●4月
右腕をケガし、ギブスのまま通学。
●8月
夏休みにお友達と、大分県の湯布院へ旅行。
青島にも遊びに行きました。
1975年(昭和50年) 13歳(中2)
●1月
お正月、千葉の成田山へ、おじさん・おばさんとお参り。
●2月
エピソード
バレンタインデーで富満真美くんにセーターを編もうとしたが、編めないのでお母さんに編んでもらった。(結局渡せず…) この頃から料理を作るようになる。お母さんが病気になったりした時は必ず作った。
●4月
担任は1年の時と同じ草場栄一先生。
テニス部のレギュラーになる。
池松真由美さんとお友達になる。他の子を含め、5人グループを結成。いつも5人一緒なので、「5人姉妹」と名乗っていた。生まれた順で法子は末っ子。
エピソード
5人で何かと理由をつけて集まり、パーティーを開いた。学校帰りや休みの日もよく集まった。昼休みに学校を脱け出して法子の家に行き、昼のメロドラマを見ていた。
特に池松真由美ちゃんとは大の仲良しで、「ラブリー・エンジェル」というデュエットを組んで教室などでピンク・レディーの真似をしていた。
この頃から郷ひろみに憧れるようになる。
体育祭。
スポーツフェスティバルではソフトボールに出場。(中央)
カッコはなかなかのスポーツウーマン。
遠足。仲良し5人組と写したのに、法子は考え事をしています。
1976年(昭和51年) 14歳(中3)
鹿児島・宮崎・青島などに修学旅行。
鹿児島。
鹿児島の旅館でお風呂から出てきたところ。
お風呂上りは色っぽいかしら?
●12月
担任の先生から信愛女学院への進学は難しいと言われ、学校から帰るとタオルでねじりはちまきをして毎日0時過ぎまで猛勉強をする。
エピソード
中学2年の頃から歌手を志望したが、音楽の成績は1年が「4」で2年・3年が「3」だった。
◆中学時代のファッション
中学3年の頃はロングヘアーだった。
特別増刊号 「松田聖子 PERFECT DATA FILE」 第0号②へつづく…
■参考サイト様
ウィキペディア フリー百科事典
Seiko Fan Web Site ~松田聖子の部屋~
Starlight Room ~Seiko Room~
■参考文献
「松田聖子大百科」
「ひとりじめ松田聖子」
「聖子1911DAYS」
■スポンサーサイト様
in the closet ~クローゼットの中の松田聖子達~
ys様、貴重な資料のご提供 ありがとうございました。
◆お願い◆
松田聖子さんの“歩み”をできるだけ多く記録する為に、 あなたの貴重な情報をお寄せ下さい。
あなたの応援が励みになります。
「いいね!」って ↓ を“ポチッ”とお願いね!