我が家は、あるお寺の檀家である。その寺は結構古くて由緒あるようだが、檀家が少なくて年に1回以上はお寺のお講の当番が回ってくる。花を買って来て、誰も参加しないお講に参加するのが当番の役目である。姑が専らこの役を引き受けていた。しかし、認知症がひどくなってからは、当番をスッッポカすことが数年続き、姑の認知症がかなりひどいことが村に周知された今年、お寺から直接私に明日のお講の当番をするように電話があった。突然の事で「行けない」というと、坊さんに電話が代わり、「認知症になった姑のためにも姑を連れてお講に来たほうが良い」とのこと。この言葉に私はぶちキレた。「同居しているだけでもストレスフルなのに、その上姑を連れて来い、とは、あまりにも実情を知らなさすぎる言葉。お講の当番は、私一人で絶対に行く」と電話を切った。お寺の坊さんには、偽善めいた表面上の言葉ではなく、心からの言葉を言ってほしいという思いもあり、一度話さなければならないと思ったからだ。翌朝、身構えてお寺に乗り込むと、私に恐れをなしたかのように開口一番「口は災いの元で、あなたを怒らせてしまい、妻にも叱られた。」と言う。お坊さんの言葉かと、本当にがっかりした。それでも、介護家族の苦しさをわかってもらおうと、「人の心は、一日のうちでも天国を向いたり地獄を向いたりするので、できるだけ心の向きを天国に向けるよう努力しなければならない」という一念3千の話をすると、知らないと言う。浄土真宗だからといって、仏教の歴史を知っているだろうと思ったのにさらにガッカリ。で、「あなたは物知りですね。」と来た。お坊さんに喝を入れるのはドラマのなかだけ。これから、姑に代わり、このお坊さんの有り難いお話を聞く日々が始まるのです。