※毎週水曜更新。来週、誰も覚えていないであろう姉上が登場。

アクアの本名は、アリエルです。姉はアリスタです。復習。


 食堂へ行く前に、いつものようにエリックの部屋へと向かう。
 部屋の前まで来た時、誰かの声が聞こえてきた。
 明らかにエリックじゃない。誰かお客さんかな?
 私は、部屋に、入っていいのかどうか迷った。
 お客さんが居るところに、入るのはいけない気がする。
 お客さんが言う。
「――それで、明日会う約束をしてきた。お前も含めてな」
 一体なんの話をしているのだろう。
 いけないとは思うのだけど、好奇心には勝てない。
 私は、ドアに耳を当てて、話を聞く。
「それは、私にクロスの姫と婚約しろということですか?」
 私は、それがエリックの声だと認識するより早く、その言葉の意味を考えていた。
 婚約? 今婚約って言った? 婚約って、結婚する事?
 頭の思考回路がとつぜん停止したかのように、ただ言葉だけが反復する。
 ――もし、その王子様が結婚した場合、あんたは泡になってしまうよ。
 突然、魔女の声が頭にひびく。
 今まで考えもしなかった、エリックが結婚する事。
 でも今、結婚してしまう。そして、私は消えてしまう。
 エリックの声を聞く事も、エリックの笑顔を見ることも、エリックの肌に触れ、体温を感じる事も出来なくなってしまう。
 そう思ったら、急に怖くなった。
 全身が音を立てているんじゃないか、と思うくらいに震えている。
 体中の血が、一気に足元へと逆流していくのを感じる。
 消えてしまうなんて、何も感じなくなってしまうなんて、そんなのは嫌。
 私は、その場から逃げるように走り出した。

 走って、走り続けて気がつくと、昨日エリックと一緒に月光花を見た洞窟の前まで来ていた。
 結婚。その二文字が胸に、よく切れるナイフのように、深く突き刺さる。
 ずっと、エリックの傍に居られるのものだと思っていたのに、違った。
 もう一緒にいられない。
「アクア!」
 私はその声に振り替えない。
 振り返られなかった。
「こんな所に居たのか、どうかしたのか?」
 私は、なんでもないと言う代わりに、ゆっくりと首をふる。
「……とにかく、城に戻ろう。朝食が冷めてしまうぞ」
 私は答えない。
「……わかった。しばらく、ここに居よう」
 私は、下を向いたまま振り返り、右手の人差し指をまっすぐ前に伸ばす。
 帰ってと、動作だけでそう伝えようとする。
 今は、エリックの顔を見たくない、声も聞きたくない。
 彼の顔を見た瞬間、声を聞いた瞬間、泣いてしまう気がして。
「…………ッ! 今の君を放って帰れるわけないだろう!」
 エリックが怒鳴る。
 頬を何か暖かいものが一筋、伝った気がした。
 静かになり、波の音がやけに大きく聞こえる。
 その静けさが、空気が重たくなったような感じをさせる。
 それを破るように、エリックが言う。
「せめて……傍にいるくらいはさせてくれ」
 そう言ったエリックの声が、遠く聞こえる。
 涙が、後から後から流れてくる。
 足元の砂浜が、ぬれた。