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うちの大学には海外からの留学生が物凄く多い。とりわけ院に至っては、日本人よりも留学生のほうがよほど多く見えるほどだ。

早口でけたたましくさえずる中国人留学生の一群の隣で、韓国の留学生が何かに抗議している。その脇を金髪を靡かせて北欧の女子学生が自転車で通り過ぎる。隊列を組んで楽しげに歩くのはアフリカ系学生たち。子供の手を引いてゆったりと進むのは、サリーに身を包んだインドからの留学生…。

しかし、だからといって院の卒業生の総代が、ほとんど外国人留学生だったのはさすがに作為を感じざるを得ないの。

ニッポン人、外国人に媚びすぎィ!

こんばんは、ふみかです。

先日、無事に卒業式を終えることができた。大学は朝から晴れ着姿の学生で溢れていた。しかし、さすがに院の卒業式まで袴を着てくる学生は少ないだろう…と高を括ってスーツで行ったら、女子の卒業生の七割程度が貸衣裳に身を包んでいた。わぁあたし凄く浮いてる、と思ったが、浮き上がってるのは生まれつきなので二秒ほどで気にならなくなった。人間、裸で生まれて裸で死ぬのだから、途中に何を着ていようがあまり意味が無いのだよたぶん。

さて、氷雨降る卒業式は何故か呼ばれたプロ歌手が校歌を大熱唱したり、何故か会場の外でチアリーディング部が踊りまくっているなど、大変和やかな雰囲気の下に終わったのだった。

個人的に一番心に残ったのは、おそらく人生最後になるであろう、校長先生的な立場の方のお話、卒業証書を手渡してくださった専攻長のお話であった。

「皆さんは高校、大学を経て大学院まで進みました。高校までの積み重ねに加えて、院進学以降の努力に報いて、修士の学位を得られました。皆さんには想像が付かないかもしれませんが、学位の有る無しは、その扱いに天と地ほどの差を受けるものです。皆さんが努力して得た学位はそれほどまでに偉大かつ重いものであるということを、どうか忘れないでください」

「皆さんは、就職する人もD(博士課程)に進む人も、これまでの努力と今後の努力の積み重ねが、業績として陽の目を見るのはどんなに早くても四十代、五十代に差し掛かってからであろうと思います」

「ですから、安心して今を生きてください。たとえ、どこを歩いているのか今は分からなくても、必ず道は繋がりますから」


この言葉を聞いて、私はとても勇気付けられた。

わたしが人生を賭けてやりたいこと、結果を残したいこと、貢献したいことは、残念ながら今まで修めてきた学問とも、これから携わる仕事とも直接的な関わりがない。若く、巨大な才能がいくつも現れては消える中で、わたしは(個人的に修行はしているつもりだが)それ専門の学校に通ったわけでもなく、それを通じてお金を貰った経験も無い。 わたしが時間を無為に過ごす隣で、同じ志を持った人間は静かに努力を重ねている。そんな彼らに追いつくことなど出来るのか。今更始めたところで、スタート地点が違いすぎるのではないか、諦めたほうが良いのかも……

打ち消しては浮かぶ自分の声に、負けそうになることが何度もあった。

しかし、専攻長の言葉を聞いて、この考えはやはり間違っていると、自分の進んだ道は正しいのだと、ようやく自信すら持つことが出来た。

専攻長の言葉は主に研究の分野における意味で言ったのだろう(ノーベル賞級の研究は、発見こそ早くても実際に確立され、認められるまでは数十年単位で時間が掛かることが多い。如何に若い科学者が始めた研究でも、認められるころにはかなりな年を取っている)が、それはどの分野でも言えることだ。音楽でも美術でも、その人の進む道は全て異なっていて、下積みの長さも熟す時期も、人それぞれなのが当たり前だ。

だから、わたしは安心して今を生きて良いのだ。わたしはわたしの道を進んでいて、今はどこにいるのか分からなくても、いつか繋がることは確かなのだから。