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「貴賎道俗の差別なく、信心の人は妙法蓮華経なる故に、 何れも同等なり」 というのは、身分が貴かろうと賤しかろうと、金持ちであろうと 貧乏人であろうと、この信心をしていくことによって即身成仏が 叶うという点においては、全く平等である、と言われているのである。 現今の創価学会においては、この部分だけを抜き出して用い、 ”だから僧俗は同等だ”などと言うのであるが、早まっては いけない。その後に、 「然れども」とただし書きが加わり、 僧俗の礼儀有るべきか」 があるのと同じように、位を乱さずに、僧俗の礼儀を守ってい かなければならない、と示されているのである。 るから平等だ、といっても、たとえば、御僧侶の中にも、 能化・所化という次第、区別がある。また、在家の中でも、 信仰暦の長い人・浅い人という違いもある。 要するに、いろいろな点において、立場の違い、差別と いうものが、現実に存在しているのである。 僧俗の礼儀を守って信心していくべきことを示されたのである。 そして、 「信心の所は無作一仏・即身成仏なるが故に、 道俗何にも全く不同有るべからず」 ろには、皆、無作の一仏となって即身成仏をすることが できるから、出家であっても在家であっても功徳に 違いない、と。 作った側であり、人間は神によって作られた側であるという、 絶対的な差別が存在しており、どんなに信仰しても、人間が 神になることはできない。どこまで行っても、差別が 埋まることはないのである。 聴聞するという点においては、厳然たる差別が存するが、 しかし、その仏の説かれた法に随って修行していくと、 我々凡夫もまた、同じ成仏の境涯に進むことができる ・・それが無作の一仏になるということである。 我は其の心中を不便に思うべきか」 儀を尽くさなかった、無礼な口の利き方をした、 というようなことがあったとしても、その相手の心根を 哀れに思うべきだ、ということである。 まだ信心がわかっていないから、そういう非礼な」態度 をとるのだと、相手の信心未熟を哀れに思って、 許してあげなければいけない、というのである。
「之れに於いて、在家・出家の不同有るべし。
悪く思うは在家なり。是れ即ち世間・仏法の二なり」 れている。 それを慈悲の心で哀れに思っていくのは出家の立場であり、 許せないと思うのは凡夫の心であり、在家の立場なのだ、 それが世間と仏法の違い、在家と出家の違いである、 と言われているのである。 たちに都合のいいよなところの文だけを取り繕っていかにも 自分たちが「大聖人の御心を理解している」 とのたまわっているが、文全体を通さないとその意味は見えてこない。。
学会員は、大聖人様の前ではみな平等だから法主も我々も一緒だ!! というが、この化儀抄に書いてあるとおり、仏法を受けるのは平等! だけど、その過程・境遇・立場、すべての人が一緒のわけで はないので、そのことをしっかり化儀されている。
そこに師弟の筋目を理解することができない「浅い知識」を振り回し、 常に法華講員に破折されてしまい、なすすべなく集団ストーカーや 電磁波攻撃などの姑息な手段しかできなくなって犯罪を犯すのである。
ここである人の名言を拝借して・・・
勉強しなさい!!(爆)
次回は、日蓮大聖人の仏法修行の柱の一つでもある御供養についてです。 「御供養取次の心」を勉強したいと思います!!
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この文を理解できないかわいそうな人はこの偽本尊を拝んでいます!!
大聖人様より仏法を直接授かっている歴代御法主のもとで本当の信心をしたい創価学会員・顕正会員の相談にのります!!