前回に引き続き自身の信心の話をします。


日蓮正宗には、鎌倉時代からはもちろん、釈迦の時代からの化儀があります。


それは、先祖供養!!


仏教には三世の魂というものがあります。

死んでも魂は時を経て次の肉体に移りゆく。。成仏すると生まれ変わらなくなるともいうが。。


そんな意味合いとかもありますが、私みたいな一凡夫だとどうしようもないことなので。。


日蓮正宗では毎月1日に御経日というものがありまして、毎月第二日曜日の御講という行事の次に重要な行事ともいえます。


まず、何故1日にやるかというと、月の初めに御本尊様に会いに行くという意味合いもあるみたいです。


戒をうける道場である戒壇。もちろん根本の道場は大石寺ですが、それに準ずる義の戒壇として全国各地に末寺があります。


大石寺には選ばれた人だけしか御経日にはいけませんが、全国や世界各国にいる信徒のほとんどはこの日に各所属のお寺に参詣します。


そして、塔婆(釈迦の時代ではストゥーバと言っている)をたてて先祖などの魂を供養します!!


一般のかたもお盆やお彼岸とかに供養すると思いますが、日蓮正宗では、さらに毎月供養することで、故人に対しての恩をしっかり認識します!!


10時と19時に分けて追善供養します。


自分は19時にやりました。


以前に御住職に塔婆作成を頼んでおき、当日に開眼と供養。 御住職と共に夕勤行をし、追善供養の観念をし、焼香をします。


このときに、自分の今があるのは、先祖がいるということ!!自分にかかわってくれた人がいたこと!をしっかり心に刻み観念します。


この塔婆供養について大聖人様は

草木成仏口決   文永九年二月二〇日  五一歳
 問うて云はく、草木成仏とは有情非情の中何れぞや。答へて云はく、草木成仏とは非情の成仏なり。問うて云はく、情・非情共に今経に於て成仏するや。答へて云はく、爾なり。問うて云はく、証文如何。答へて云はく、妙法蓮華経是なり。妙法とは有情の成仏なり、蓮華とは非情の成仏なり。有情は生の成仏、非情は死の成仏、生死の成仏と云ふが有情・非情の成仏の事なり。其の故は、我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。

其の故は、我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。」


とおっしゃっており、

死は一切の衆生の避けて通れない一実相であり、全ての衆生に平等に訪れる現象である。
その一切の衆生の「死」において、塔婆を立て、開眼供養をすることが「草木成仏=死人成仏」となる。と説かれておられるのであるから、この万人が迎える「死」において、塔婆を立て開眼供養する化儀は、成仏を目指す全ての門下の死に際して行われたことは自明の理である。


また法華経『方便品』には、

* 「若しは廣野(こうや)の中に於て土を積んで仏廟を成し、乃至、童子の戯(たわむ)れに沙を聚(あつ)めて仏塔と為れる。是の如き諸人等、皆巳に仏道を成じき」(開結180ページ)


と、仏塔造立の功徳の甚大なることが説かれている。また『法師品』には、


* 「若しは経巻所住の処には、皆応に七宝の塔を起てて、極めて高広厳飾ならしむべし。復、舎利を安んずることを須(もち)いず。所以(ゆえん)は何ん。此の中には、已に如来の全身有(いま)す。此の塔をば、応に一切の華香、瓔珞(ようらく)、繪蓋(ぞうがい)、幢旛(どうばん)、伎楽、歌頌を以って、供養恭敬、尊重讃歎したてまつるべし。若し人有って、此の塔を見たてまつることを得て礼拝し供養せん。当に知るべし、是等は皆、阿耨多羅三藐三菩提に近ずきぬ」(開結391ページ)


と、明らかに宝塔とは、砕身の舎利ではなく、『法華経』所住の塔であることを意味し、即、如来の法身として尊重すべきことが説かれている。

このことから、しっかと塔婆供養することで先祖の恩への感謝と、それに伴う自身に宿る業の罪障消滅をします。


創価学会などでは、この塔婆供養を坊主の金儲けだ!!とか言って否定というより誹謗していますが、やはり創価学会には恩に感謝するということはないんでしょう。


法華経の行者になるための修行は、勤行・唱題・折伏・登山・御供養・塔婆供養・寺院参詣とたくさんありますが、それ一つ一つが自分の罪障消滅のため、御本尊様への御奉公のため、しいては大願成就のためですので、しっかり修行したいとおもいます!!