「時の貫主たりといえども仏法に相違して己義をを構えば之をもちうべかざる事」


時の貫主・・・古来、日蓮正宗において、御法主上人は大石寺の貫主であるが、日蓮正宗の貫主ではない。


根拠として相伝書(百六箇抄等)では、日興上人を「総貫主」とそえている。つまり貫主の総である。つまり貫主がほかにいるということ!(ちなみに総貫主が日興上人のみで、貫主が代代の御法主というならその時点で血脈を認めることになるではないか?)


内閣をみてもわかるように、各省に大臣がいて、その総を総理大臣といっている。


つまり「貫主」とは日蓮正宗では各末寺の御住職のことをいう。それらをまとめるのが「総貫主」である総本山の貫主である。


もし文証を重んじるのであれば、「御法主」が「総貫主」である文証はあるが、「貫主」が「御法主」という文証を上げてもらいたい。



仏法に相違して・・・三宝一体の文証により、仏法=御法主の御指南となる為、「御法主の御指南に相違して」となる。


これをふまえると、「時の・・・」の解釈とは・・・


日興門下(日蓮正宗)では、いつの時代になっても、日興上人(代代の御法主)の弟子分である御僧侶たちは、その時分、各地で日興上人(代代の御法主)の名代として弘通・及び教化する際、日興上人(代代の御法主)の御指南とあきらかに違う己儀を唱えるようであれば、貫主(各土地での師)として用いては(登用しては)ならない。


つまり、弟子、もしくは信徒に用いる用いないの判断を許している文句ではないと感じる。


このような釈なら、師弟の関係・三宝一体の矛盾点も解決するのではないであろうか?


弟子が相違を判断するという憎上慢も生まれるわけでなく、御法主が法を破るという三宝一体を真っ向から否定する矛盾も出ないように思う。


ようは仏法とは御法主の御指南と読めば、すべての御書がすんなり読めるであろう~


仏法とは御法主の御指南!は文証であげれますが、御法主の御指南と仏法が相違するというのは文証・根拠があるのだろうか?


文証・道理で説明できなく、ただ感情で御法主を誹謗しているのではないか??