記事「卒業式」のコメントに、

「自分の中で一つの区切りがついたような気がする」
と、書きました。

何の区切り?

今のてっちゃんの区切り・節目といえば、
一周忌や三回忌、次は、七回忌というような法要でしょう。

てっちゃんは、もうこの世にはいないから。

それなのに、やっぱり、
生きてるてっちゃんを考えてしまう。

生きてたら、○才。
生きてたら、○年生。
生きてたら、受験生。
生きてたら、成人式…


例えば、
去年は、受験生と聞いても、
何とも思わなかったけど、

今年は、
「受験生」とか「卒業式」という言葉により敏感。

それって、
考えすぎなんじゃない?
どっちみち、今のてっちゃんには関係ないじゃない。

そう思っても、
卒業式の日は、気を紛らわせていないと、
深く沈んでしまう。



それは、きっと、

お腹にいる間に…
産んだ瞬間に…

そういう節目を迎えるということを、
身体や心に刻み込んだのではないのかな。

深く深く刻みこんだことで、
その道とは違う道を、てっちゃんが歩むことは、
自分の中で、なかなか受け入れられないこととなる。


出席するはずだった卒業式に出席しないと、
心の行き場がなくなる。

卒業式に出られない私は、
区切り(けじめ?)がつかず、
浮浪者のように、心はふらふらふらふら…
心のバランスが取れなくなる。


それが、
今回てっちゃんの頼みとはいえ、
Sちゃんに、お花をあげたことは、
てっちゃんの中学の卒業式に出席したのと、
同じ役割があったような気がする。


同級生に「おめでとう」と言えない私と、
お祝いをあげる私。

矛盾していて、自分ですごく混乱してた。

涙ながらに渡し、
家に帰ってからも一人で泣いた。

いっぱい泣いた。

けど…
泣いて混乱しつつも、
「あぁ、てっちゃんは中学校を卒業したんだ」
と、身体のどこかで(心かもしれないけど)
納得する自分がいた。

「よくできるね、頑張ったじゃん私」
と自分を賞賛する自分と、
「お祝いを渡せてよかった」
と思う自分がいた。



そして、
Sちゃんという存在の子がいることは、
とてもとてもありがたく幸せなことだなと思った。



「Sちゃんに、お花あげといて」
って言うてっちゃんの声。

あれは、確かに
てっちゃんが言ったんだろうなって思う。


産んだ瞬間に刻み込んだ、
(親としての)道を行こうとする私に

中学卒業という「けじめ」をつけさせようとしたに違いない。

絶対に。





なんだか、難しいことを、
少ない脳みそで考えてるなあ………

またてっぺん、白くなりそう………