「あー、ちょっとお茶こぼれてるこぼれてる」

 

慌てて陽向が布巾を手に、テーブルを拭くと、美晴はやっと我に返って、息子の顔をまじまじと見た。

 

「家出るって…、出てどこに行くつもりなの」
「地元に帰る」

 

次は陽向ははっきり言い切った。


「私はあんたを追い出すつもりはないんだよ」
「わかってる、わかってるって」

 

狼狽する美晴の手を取って、陽向は彼女を安心させるように握る。


子どもの頃は、陽向が泣くと、こうしてくれたのは、美晴だったし、
その手ももっと大きくふっくらしていたのに。

自分より小さく、ガサガサの手を取って、考えてしまう。


子どもを庇う親。親を労わる子ども。
その力関係が逆転してしまうのは、どの地点なんだろう。


「母さんが新藤さんと幸せになる道を探すなら…、
俺は俺で別の幸せになれる場所を探したい。
そう思っただけなんだ」
「ここじゃダメかい。あんた、さっきも『帰る』って言ったもんね。
最後までこの街は、あんたになじまなかった?」

 

美晴は少し寂しそうに、陽向に尋ねる。

 

「この街が嫌いなわけじゃないよ?」

 

冬の月のように、凜と美しく、気位の高い街。

観光として訪れたり、ちょっと住むのには、いいと思う。

美晴のことがなくても、また来たいと思っている。

 

けれど、自分が生きていきたいと思うのは、

やはり懐かしい人に囲まれたあの地なのだ。

 

「けど…」
「月征くんもいるし、なんだっけ、あんたの彼女のやたら可愛い子」
「…しーちゃん」
「そう、詩信ちゃん。そうだよねえ、あんな可愛い子、放っておいたら、
いつ誰にかっさらわれちゃうか、わかんないものねえ」
「……」

いやその心配はあんまりしてないけど。
でも、母は詩信の事情を知らないから、陽向も美晴の言葉を笑って受け流した。


「俺もすぐに出て行こうってわけじゃないから。
仕事も住む場所も見つかったら…」
「それじゃだいぶかかりそうだねえ」
「しっつれいだなあ、そんなにかからねえよ」

陽向の決心が固いと見て取ったのか、
あるいはすぐに出て行くわけじゃないから、安心したのか、
美晴の口調も軽快なものになる。


「母さんこそ、新藤さんに愛想つかされないようにしろよ」
「わかってるよ」

 

そう言ってから、美晴はやおら立ち上がって、仏壇の位牌の奥から、
一通の封筒を出してきた。