この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。




朝議に参じた臣下らは
それぞれに祭の支度へと向かっていた。
館内の小者たちは朝餉を供したところで、
家に戻る許しを得ていた。



厨の土間に立ち働く影はなく、
議場に続く廊の踏み板を軋ませる臣らは消え、
鷲羽の里を見下ろす長の館には
勾玉を抱く二人と勾玉に従う二人しかいなかった。



可知の悲鳴は板壁に跳ね返り、
たづの袖に吸い込まれた。
くずおれた朔夜は
神渡に抱き止められて
投げ出された細い下袴しか見えない。



長の居室は
差し込む日差しに明るく、
純白の衣装は日を受けて瑞々しい。
だが、
その衣装を纏う巫は
晴れの明日を前に
昏睡していた。


こそとも動かなくなった可知は
目を皿にして動かぬ逞しい背を見詰め、
たづは片膝をついて小さな背を抱いていた。



「朔夜………。」

名を呼べど答えぬ顔を
神渡の掌がそっと包む。
己の手にすっぽりと入る小さな顔は、
いつにもまして小さく感じられた。



神渡は
そっと朔夜をゆする。
仰向いた小さな頤の下に
白い喉が無防備にさらされた。


〝伽〟とささやくあどけない声が甦る。
褥を共にした夜、
唇を寄せれば未通女の戦きを見せたそこに
薄紅の吸い跡をつけた。
朔夜には、
その夜が契り初めであった。


いじらしいまでに羞じらうのは
肉を既に知っていたから。
悦びが深まるごとに怯えるのは
己の穢れを思うから。
おずおずと開かれる体に神渡は朔夜の哀しみを感じていた。

だから、
それを
一つ一つ己の愛撫で埋め尽くすつもりでいとしんできたのだ。


「朔夜、
 神渡じゃ。
 応えておくれ。」

都の一語で真剣に沈んでいった朔夜がさまよう悪夢を思い、
神渡は朔夜の体をゆする。




バサバサっ、
屋根の下に迎えるには大きすぎる羽音が
静けさを破る。
たづの眼がすっと動いた。


あっと可知が
壁際に並べられた祭具に飛び付き
五色の領布をつかみとった。

「何か来たんだねっ
 姫さまっ」


たづは答えず
縁に進み出た。
藍衣に束ねた髪がその背を流れる。
鷲羽に戻った日からたづは髪を結うことをしなくなっていた。


「ええ
 祭のお客さまが
 早く着きすぎたようです。」


神渡はその顔を庭に向けた。
そして、
その腕をしなやかに抜け出す精霊の背を見送ることとなった。


たづの脇をひらりと抜けた華奢な肢体は
翼でもあるかのごとく
庭に飛んだ。
カン………と空気が澄んだ。
降り注ぐ陽光の中に
冷たく冴えかえる柱が立ったかのように。


「月さまっ」
可知が飛び出そうとするのを
たづが抱き止めた。




神渡は静かに立ち上がった。
眸を確かめたい。
月光が凝ったような冷徹は神渡の知る朔夜の姿だ。
ただ、
出会ったときは闇に焔が揺らいでいた。
ぽっかりと暗い眸は朔夜の変容を告げているのか、
呼び起こされた〝都〟を映したものなのか。
その眸を見たかった。


「出て来よ」

神渡は縁に足を止めた。
朔夜の声だった。
甘く、
愛しい、
変わらぬ声が思いがけぬ鋭さで響いた。



そして、
木立から男は現れた。
「かわいい声だ。
 うれしいぜ。
 抱くならかわいい子がいいからな。」


蓬髪が似合う。
日に焼けた浅黒い顔に
不敵な輝きを放つ眸が野生を漲らせて朔夜をひたと捕えていた。
それは男の欲情とも見える。


「タケル殿、
 ここは鷲羽の館、
 お招きした覚えはない。」

神渡は
声を張った。
朔夜が振り向かないのが
ちりちりと胸を妬くが、
その言葉は朔夜が鷲羽のものであることを示していた。

叩き出してやる。
そのつもりで
神渡は庭に足を下ろそうとした。


「神渡様、
 どうぞそのままで。
 こやつは神渡様に悪しき心を抱いています。」

背を向けたまま
朔夜はすっと腰を落とした。
隙がない。
そして容赦もなさそうだ。


「朔夜、
 もどれ。」

「タケル!
 戻りなさい。
 頭領には後でお話します。」


神渡とたづの声が重なる。


そして、
神渡は朔夜が振り返るのを見た。

その肩が、
形のよい頭が、
わずかにしならせた腕が、
その立ち姿の涼やかさをそのままに、
鮮やかな弧を描いて反転した。
その髪が靡くのまでが
しなやかな身のこなしを彩る花。
そうだ。
朔夜は武のものであったと
神渡は驚きとともに思い返していた。

それも一瞬、
次の瞬間には、
己を見つめる眸に射抜かれた。
真っ直ぐに飛び込んでくる慕情が
きらきらしい。
揚羽蝶がその羽を広げていた。


「神渡様、
 われのすべては、
 あなた様のものでございます。

 やらせてください。」


そして、
朔夜は返事も待たず
ふたたびタケルと相対した。


秋萩の花弁散り敷く樹下の地を踏んで
タケルが進み出る。
ニヤリと笑って背に負った剣を鞘ごと抜き取り、
投げ捨てた。


朔夜が地を蹴って飛んだ。
タケルがひょいと身を躱したその先に
艶やかな黒髪は流れ落ちる。
頬を掠めるそれにヒヤリとした瞬間、
タケルは背を反らした。

ごろりと地面を転がって身を起こしたとき、
首筋を伝うぬるいものを感じた。

朔夜は懐剣を手に
ふたたび飛ぼうとしていた。



「そこまで!」

びしりとしわがれた声が響き、
朔夜は神渡に抱き止められていた。
バサバサっと羽音が
ふたたび響いた。
小さな老人が中庭に入る門に立ち、
その肩に一羽の鷹が翼を畳む。


「じいさん、
 余計な世話だったぜ。」
タケルが膝の土をはらって
立ち上がる。
朔夜がぐっと飛び出そうとするのは
神渡が押さえた。


羽化した揚羽蝶は
ずいぶんと気が荒いようだ。
訴えるように己を見上げる眸は熱い。
「ここまでだ。
 いい子だ。」
そっと囁きながら
その眸を近々と覗き込む。
「神渡様………。」
頬が染まり、
眸は情に濡れる。
闘気はようやく鞘に収まった。


老人は老人で
後ろを振り返り
誰やら手招きしていた。
門の脇にでもいるのだろうか。
その人物は現れず、
タケルがため息をつき、
門に向かった。

老人もため息をつくと
くるりと振り返り、
いかにも申し訳なげに笑う。


「神渡殿、
 すまないことでした。
 タケルも
 まず用件から言えばいいものを。
 ちょっとお頼みがございましてな。
 われらには荷が重い拾い物をしてしもうてな。
 それで参ったのでござるよ。」

そして、
秋萩の向こうにタケルとともに小さな頭が覗いた。
にゃあああああと
いかにも馬鹿にした鳴き声を発するのは
黒である。
タケルがひどく不機嫌になっていた。
野盗に拐かされた幼女は
こうして鷲羽の館にやってきた。


イメージ画はwithニャンコさんに
描いていただきました。
ありがとうございます。




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