ロシアの国内選手、ベラルーシの選手によるフィギュアスケート大会が開催されています。
初日はジャンプ・フェスティバルだったとか。
残念なのは、
世界選手権をめぐることばの応酬です。
スポーツの領域に収まらないものへと広がっていく亀裂となりかねません。
「それは世界一を決めるものではない」
これは事実です。
参加国が限られた大会は、
真の世界一を決めるものとなりません。
それは、
1980年モスクワ五輪の場合も同様でした。
ロシア女子、中国ペア、
フィギュアスケートでは国によってお家芸ともいえるジャンルがあります。
だからこそ、
ファンは今回の世界選手権を残念に思っています。
三浦・木原組が北京で示した世界で活躍できるまでに成長した姿は、
世界が一つになって開催される場で、
さらに確かなものとなるはずでした。
メダルはなくとも、
彼らが日本にペアの新時代をもたらしたのは、
既に五輪で明らかでした。
スポーツでたがいに高めあっていく本来の姿を望まぬアスリートはいないでしょう。
本来は世界最高峰と言われるスケーターと共に競いたかったはずです。
が、
人道ファーストです。
いかなる理念も、
人命の尊重、人権の尊厳、平和の堅持を尊しとするという世界の思いの前には、
意味を失う。
ウクライナで行われている人道に悖る行為、
人類が二度と選択してはならぬ侵略という罪をそのままに、
すべての選手が共に競いあう。
それをしてしまっては、
侵略を世界が認めたかの発信ともなりかねません。
「せいぜい2回転ジャンプの時代遅れのプログラムを楽しめば言い」
どんな流れでおっしゃったのかはわかりませんが、
フィギュアスケートでは大御所と敬われる方の言葉だそうです。
本当におっしゃったのか。
それを疑いたくなりますが、
ジャンプ・フェスティバルの開催という前夜祭つきの大会は、
たいそう特殊です。
あったのかもしれないと思います。
心臓が冷たくなりました。
勝てばいいのか。
強ければいいのか。
それはフィギュアスケートを道として精進を重ねてきた全てのスケーターを踏みにじるものとおもいます。
強いことは素晴らしい。
ですが、
強さをふりかざすとき、
それは泥にまみれます。
たがいを敬う気持ちをもたぬスポーツは、
スポーツする魂、
アスリート魂、
それらを喪失しています。
だから………と、
ドーピング問題へ、
さらに軍事力の強大さをもって、
他国を侮ることばを頻発するその国に、
それがお国柄なのかと問いかけたい気持ちが、
ふつふつと沸き上がりました。
かつて、
日本でも
戦争の流れの中で
疑問の声をあげては投獄された方々がいました。
今のロシアでも同じことが起きています。
戦争が廊下の奥に立っていた
と詠んだ渡辺白泉は、
弾圧をされながら生き延び、
徴兵されました。
国という圧力を前に、
国民が無力であることは承知しています。
ですが、
強さだけを価値とする考え、
また、
フィギュアスケートファンとしては、
ジャンプだけを価値とすることばに、
恐ろしさを感じます。
こうした言葉を引き出してしまう前段階に、
北米ジャーナリストからの
ロシアと中国不在を歓迎することばが続いたことも、
残念です。
ことばは波紋を起こし、
負には負が返ります。
そして、
誰でも心の中に飼っている獣が咆哮をあげます。
より好戦的に。
より敵対的に。
平和を損なう波動が広まらぬよう、
願います。
画像はお借りしました。
ありがとうございます。