この小説は純粋な創作です。

実在の人物・団体に関係はありません。





ここにわれらはいるというのに……。

深水は気づいていない。

タケルはそれが腹立たしくもあり、

面白くもあった。


すかした野郎だ。

もったいぶった口調を思い出すと、

怪しいことこの上ない身の上としては、

秘密の多そうな祭の支度を無造作に聞かせて気づかぬ深水が面白い。


同時に、

この鷲羽の里に着いて以来、

どこか身の置き所がない思いがあった。

タケルには、

翠の勾玉のことなど知ったことではなかった。



ふんと、

タケルは唇を歪ませる。

ともあれ、

このまま童女は鷲羽に預けるのだ。

今夜の宿など、

野宿で十分だというのにと思うと、

老人の振る舞いまでが腹立たしくなった。




童女の世話を、

口の悪い小僧の母に預けたのは深水だ。

それきり、

潔斎へと向かった長の後を受けて、

臣たちに囲まれていた。

おたがい探られたくないものはある。

連れてこられた子どもを引き受けることで話はついたとするのが、

互いのためというものだ。


ところが、

よし、

これで厄介払いできるとほっとしたのも束の間、

老人はにこにことお袋様に頭を下げたのだ、

〝お世話になります〟と。



そして、

また老人は動く。



からりと引戸が開いた。

土間に差し込む陽光に、

臣の一人かと見紛う長衣の老人が照らし出される。

こんな小柄な臣がいただろうかと訝しみ、

その背後に険しい顔の蓬髪の若者を見て、

深水はぴたりと口をつぐんだ。



にゃあお

のどやかに猫が鳴く。

深水の懐から一匹の黒猫が顔を出していた。



〝やあだ

 何焦ってるのよ〟


深水は猫をぐぐっと懐に押し戻し、

背筋をぴんと伸ばした。

うにゃにゃっと抗議の声とともに黒猫は深水の手をすり抜け、

土間にしゅたっと降り立った。



「おお

 たいそうな別嬪さんじゃ。」


小柄な老人が身を屈めると、

黒猫は身をくねらせてその手を拒み、

その顔をじっと見上げた。


「ほらやっぱ、

 怪しいよね、このじいさん」


黒猫の尻馬にのって騒ぐ可知の衣を

ぐっと引き寄せて黙らせ、

深水は穏やかな笑みを浮かべた。


「ご老人、

 こうして都でお救いいただいた姫は、

 こちらがお預かりしました。

 まだ何かご用向きがおありかな?」



一の臣は、

ひたと老人に視線を当てていた。

黒猫が

すっとタケルの前へと進むのに対して、

深水は一顧だに与えない。

くるっと黒猫に足元を回られながら、

深水を睨むタケルの視線もまた、

ひたと動かなかった。




「ああ 一の臣殿、

 さっそくに姫さんを気遣うていただき、

 鷲羽の懐の深さを有り難く思うておりますよ。


 なに、

 他に用向きなんぞはありませぬよ。

 秋祭に来あわせたのも何かの縁、

 見物させていただこうと思いましてな。」


老人は、

板の間の端に、

すっくりと背を立てて座す。

簡素ながら役宅の屋根は高く、

そこに貴人の装いに身を包んだ老人がいることで、

さながら館での謁見の儀かと思わせる空気が土間を包んだ。



「それは嬉しきこと。

 そう申したきところなれど、

 鷲羽の祭でございますれば、

 祭儀の場にはお入りいただけません。」


深水が片ひざをつく。


「なんと。

 興津にお迎えした巫の麗しさに、

 これはぜひ奉納舞のお姿を拝見したいと思うたのじゃが。」


そこまでだった。

タケルは無造作に動き出す。

似合っていた長衣を脱ぎ捨て、

不機嫌にあたりを見回す。

下穿きは漆黒の筒衣、

半裸の腹から胸、

そして背から肩、

ぐるりと披露されたその肉体は、

その場を静まらせる効果があった。



黒猫が、

目を細める様に深水が唇を噛む。



「要は邪魔だってことだろ。

 こんな気取った衣はいらねえよ。

 おふくろさん、

 俺の衣を出してくれ。」



老人が

ふうっと吐息をつく。

可知が素直に感嘆して見上げる。

そして、

お袋様は目を丸くしながらも、

奥へと入っていく。



それを見すまし、

タケルは低く続けた。


「鷲羽の祭か。

 だがな、

 あの巫は鷲羽のものじゃあない。

 おれがもらい受けにくる。

 楽しみに待っていろ。」


ざっと髪がなびく。

タケルは可知を見据えた。



「耳よ 覚え、 そしてとどめよ。」

ざざっと空気が動いた。

タケル自身すら、

己の声に驚いたように、

立ち尽くす。


そして、

その声が消えるや、

土間に殷殷と声は響いた。


〝勾玉に呼ばれし男、

 祭儀を前に宣する。

 巫は鷲羽のものにあらず、

 己がもらい受けると〟


一同の目の前で可知は変容した。

みるみる紅に変じた髪が巻き上がり、

その小さな拳が

ぐっと土間にめりこんでいく。

ばたばたっと転がるように戻った母が我が子に飛び付く姿が、

遠く霞む。




「……あれ?

 深水様、

 おいらに何か問うたの?」


慌てたような幼い声だった。

深水は戸外に走り出る。


   あれ また可知に逃げられたんか?

   いや そんなことは……。

   落ち着きなされ 

   あの悪たれも

   あれで しっかりしとる


のんびりした村の衆の声が聞こえる。

土間にある簑、鍬、鋤が日差しの中に、

当たり前の顔をして、

でんと並んでいた。

老人は静かにそれらを見回し、

深く吐息をついた。



「母ちゃん?」

可知の声が、

異変を感じてか、

やや小さくなった。

「おぬし、

    真っ赤な獣のようじゃった。

    おもうさまがくださった絵そのままじゃ。

    おぬしは人ではないのか?」

興味津々の童女の声が続く。


「耳は人です。

    この子のお勤めは、

    鷲羽のためにものを覚えておくこと。

    人にしかできぬ勤めです。」


お袋様の顔は青ざめていたが、

その声は凛として、

土間に響いた。

そして、

深水に口を挟ませぬまま母は微笑んで続けた。


「そうとも。

 深水様が問われた。

 お前は耳だもの。

 問われたら応える。」


そして、

耳の家を預かる母は、

凛として謡った。


〝玉に宿りしもの
 禍々しき厄とも
 赫かやしき光とも
 なるもの
 
 そろいし光は
 あまねく広がり
 光失いしときは世を闇とする。

 光を守り
 その闇を遠ざけよ〟

母が謡う声に、
おずおずと和す声が、
しだいに力を取り戻す。
闇を遠ざけよ!
謡いあげた母子は、
ひしと抱き合った。


「母ちゃんも
   耳なの?」
「いい声だろう?
    ととさまがな、
    村一番の声だとほめてくれた。」


そして、
母はふうっと深く息をつき、
タケルを見上げた。

つられて、
可知も見上げる。


その真っ直ぐな視線を受け、
タケルは微かに微笑んだ。
母子の謡うことばに高揚したようにその頬は紅潮していた。

お袋様は静かに告げた。

「勾玉は闇をもひきつけます。
 この謡は、
 真贋を見定めるものとも伝えられています。 
 あなたは闇ではない。
 ですが鷲羽の人でもない。
 お引き取りください。」

差し出す手にある黒衣を受けとり、
タケルは土間を抜けていった。
ひざをついたままの深水の腰をするっと撫でるようにして、
黒猫が続く。
童女は目を一心に目を見開いて、
その姿を見送った。

掃き清められた道を、

子どもらが手に手にすすきをかざして駆けていく。

それを追うように黒衣の若者は歩を進めていく。

子どもらは若者など目に入らぬようだった。

だが、

若者は、

既にそのような悩みから遠く離れたところにいた。




老人はそっと腰を上げた。
「では、
 今のこと、
 長によしなに
 お伝えくだされ。」


深水は静かに頭を下げた。

黒猫がついていった。

それでよしとしておこう。

深水はその女怪に信を置いていた。



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