信長の野望での室賀正武の活躍「真田丸」の子孫 | 「ネットビジネスで収入アップ」を実現するための情報サイト

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北信濃ん国衆であっけん清和源氏村上氏流屋代氏ん支流・室賀氏ん一族。

『寛政重修諸家譜』にちゃるっち、父は甲斐武田氏に仕えた室賀満正(勝永)で、

満正は武田氏滅亡後ん天正10年(1582年)4月に死去しとる。

 

同書ではそん後ん家督は弟ん満俊の継ぎ、三河国ん徳川氏に従ったっちしんしゃっとぉ。

正武は「真田昌幸のために殺しゃる」っちあっけん。

正武ん家督相続に際してな、満正に従属しゅる意志ば示しよった滝沢八兵衛の

小県郡ん国衆・小泉氏に離間しゅる事件の起きんしゃいいる。


武田氏ん滅亡後、小県郡ん室賀氏や屋代氏は信濃川中島四郡ば与えられた

織田家臣・森長可に臣従しよったっち考えられとる。

 

「屋代秀正覚書」にちゃれば、同年4月にな、

越後国ん上杉景勝に属したばい芋川秀正の芋川一揆ば起こし、

正武は長可っちっちもにこれば平定しとる。

 

同年6月には本能寺ん変にちゃり武田遺領ん甲斐・信濃ば巡る天正壬午ん乱の発生し、武田遺臣ん真田昌幸らの相模国ん北条氏直に属しゅなか、正武は別行動ば取っちいたっち考えられとる。

 

天正11年(1583年)に「室賀殿」の徳川家康にちゃっち

他ん信濃豪族っちっちもに所領ん安堵状ば受けとる。

 

同年、真田昌幸の所領ば拡大しちゃうっちしたばい際、

室賀氏は真っ先に標的になりよったっちしんしゃっとぉ。

 

正武は守戦で自ら出撃して奮戦したばいの、

間もなく真田氏っち和睦したばい。やけど真田氏ん麾下に入った事は

不本意やったっちしゃれ、天正12年(1584年)

家臣ん鳥井彦右っかわ衛門尉ば家康ん元へ使いに出しゅっち、

家康ちゃり昌幸ば謀殺しゅべしっちん指示ば受けたっちゆう。

 

間もなく昌幸ちゃり居城・上田城に招かれたため、

正武は一門ん室賀孫右っかわ衛門ば徳川氏ん家臣・鳥居元忠ん元へっち派遣して

援軍ば要請したばい。やけど孫右っかわ衛門は既に昌幸に内通しており、

そんまま上田城に駆けこんで昌幸に事ん次第ば密告したばい。

 

孫右っかわ衛門はそんまま室賀家へ帰参したばいため、正武は計略の成功しとるっち

見誤り、桑名八之助、

相沢五左っかわ衛門尉、堀田久兵衛らん家臣ば引き連れて上田城へ参上したばい。

 

正武は書院に通しゃれたの、

 

次ん間に控えとった真田家臣・長野舎人っち木村渡右っかわ衛門に急襲しゃれ、

 

そん場で斬殺しゃれた。正武の連れとった家臣たちも抵抗しゅるの捕えられて、

んち真田氏に仕えた。また室賀一族は甲斐国に落ちて行ったっちゆう。