読売新聞の特別編集委員の方の記事を転載したいと思います



今なお1万4900人の行方がわからず、15万4200人もの人々が厳しい避難所生活を強いられていることを考えると復興議論には抵抗もあるだろう。しかし、一日も早く復興への足がかりをつくるのが政治の責任である。そして復興には後藤新平という「歴史の鏡」がある。

10万人の命を奪った1923年9月1日の関東大震災は加藤友三郎首相が亡くなり、山本権兵衛内閣が発足する前の政治的空白の中で起きた。組閣方法をめぐって山本首相と激しく対立していた後藤新平だったが、「事ここにいたっては、もはやすべての行きがかりを放擲(ほうてき)して入閣するほかない」として翌2日、内相として入閣した。

「完全なる新式都市を造る絶好の機会」として、親任式を終えて帰邸するやその夜のうちに「帝都復興根本策」をまとめた。6日には「帝都復興ノ議」として留保つきではあったが閣議決定した。30億円とも40億円とも言われた復興案は財源無き大風呂敷の理想論として、最終的には7億円余に規模縮小を余儀なくされたが、この復興案によって今日の東京の骨格は造られた。昭和通りや靖国通りなどの近代的幹線道路、日本初の臨川公園である隅田公園、117の小学校の鉄筋、不燃化・・・・・・・・・。数え上げれば切りがない。

隅田川に架かる5大橋は、まず画家に橋の絵を描かせて陳列、文学者や思想家、建築家に批評を求めて設計させたという。「世界的に見てもこれだけ画然と災害からの復興を果たした例はない」(青山佾元東京都副知事)と言われる所以である。後藤の帝都復興は政治的には失敗したが、技術的には成功したところはあったという点では功罪半ば」(御厨貴東大教授)と言われる。

後藤のどこに失敗の原因があったのか鶴見裕輔著「正伝後藤新平」(藤原書店)を読んでいるとよくわかる。青山氏の言う「プレゼンテーション能力」の欠如である。時の蔵相井上準之助によるとすぐ「フランクフルトでは・・・・・」などと外国の例を挙げ、論理が飛躍する性癖があった。そのため、国民の理解を得ることが十分できず、執拗なまでの政友会の反対論を越えられなかった。

帝都復興とは異なり、東日本大震災は極めて広範囲である。しかも原発事故が重なり、漁業や農業などの1次的産業が壊滅的な打撃を受けている。一概に重ね合わせて考えることには慎重でなければならない。しかし、これを機に新しい東日本を造り上げていくという大きなビジョンを持ち、政争を超えて、新たな「復興税」の創設も含めて勇気をもって国民の理解を求めていくという点で、後藤新平の成功と失敗から学ぶことはあまりに多いだろう






いまの東京があるのは後藤のおかげだと思っています。ある意味、後藤は東京の恩人ではないかと感謝もしています。後藤の描いた東京の姿が全て実現できていたら、今の東京の姿も違ったものになっていたかもしれません。

民主党は「コンクリートから人へ」と大規模な建設や土木工事には否定的でしょうけど、数百年に一度の想定外の災害にも耐えられる街づくりが必要なのではないでしょうか。関東大震災後の帝都復興にしても財源が厳しかった中で行われ、我々はその恩恵を受けています。現在の厳しい日本の財政状況の中でも未来への投資として、災害に強い新しい街を造り上げていくことが必要なのではないでしょうか

民主党も自民党も民心を失っています。誰もが政党不信に陥っているのではないでしょうか?いまは政争を納めて政党が国を担うというよりは、政党を超えた超党派の有識者で国を運営していくことはできないのかな

今は日本人の再出発の時だと思います。新しい日本を造っていかないと