三河島に残る昔話を一つ書きたいと思います

筑後柳川藩(福岡県柳川市)立花家の家臣であった田名綱光三郎は恋のいざこざから、許嫁のお絹を同藩の佐野兵馬に奪われ、佐野はお絹を連れて江戸に出奔した

光三郎は江戸に出て、上野の寺で僧侶となって佐野とお絹を探した。苦心の末、佐野兵馬を見つけ出して仇を討ったのだが、お絹は新吉原に売られており、光三郎はお絹のいる新吉原に入り浸った

吉原通いがもとで上野の寺を追われた光三郎に、三河島の植木屋久兵衛が同情して、三河島の古刹、仙光院の9世の住職として迎えてくれた。しかし遊び場通いの悪疾がもとで耳が落ち、腰が抜けてしまったそうです

仙光院9世光慧となった光三郎は感ずるところがあったのか、門前の道路の傍らに法衣を埋め袈裟塚とし、その上に片耳の不動尊像を安置し、台座には道しるべを刻んで旅人の便宜を図った 

光慧(光三郎)が亡くなると、お絹も後を追って門前の松に首をくくって亡くなった。薄幸であった二人は天国で幸せになれたのでしょうか?その後、もとの抱え主が施主となって二人の供養が盛大に行われた。いつしか、この不動尊は花柳病に霊験があるとして花街の人の参詣が多かったそうです

仙光院は幕末に荒廃し、明治初年に廃寺になってしまいました。その跡地に寺子屋が建てられ、明治16年に荒川区で最初の公立学校である峡田小学校が建てられました。峡田小学校が移転すると、跡地に三河島町役場が建てられ、後に荒川区役所の初代庁舎が建ちました。荒川区の歴史の歩みに深くかかわっているのが仙光院ですね。仙光院廃寺後は袈裟塚耳無不動は三峰神社と共に祀られています

お不動さんの前にたくさんのお椀が置かれているのは、お椀は伏せると耳のような形をしているので、耳の病に霊験があると言われるお不動さんに祈念して、念願成就した人がお椀の底に穴を開け自分の名前を書き入れ、傍らの木柱にくくりつけていくそうです

荒川区にはいろいろな伝説や昔話がありますので、たまに書いていこうかな


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