今回も荒川の昔話を書こうとおもいます。

荒川警察署は明治通りに面していますが、このすぐ脇にお地蔵さんがあることをご存じでしょうか?

この地蔵は延命地蔵といい、江戸時代の元文5(1740)年に、浄正寺(三河島事故の慰霊碑があるお寺)十三世寛誉が村の安穏と五穀豊穣を願って建てたもの。

荒川(隅田川)からの用水路が流れ、雑木林や田んぼ、草原を横切る3mぐらいの道路があった。この道路は奥州街道箕輪から中仙道板橋宿に向かう間道で地蔵は三河島村の村外れにあって村に出入りする人達の目印になっていた。また旅に出る人が道中の安全を祈願したという

もともとは昔の荒川区役所(現在のサンパール荒川付近)の側の古墳の上にあったが、道路拡張により、大正14(1925)年に、現在地に移された。三河島と南千住の境界となったこの用水路は、この延命地蔵があったことから地蔵堀と呼ばれたが、現在は暗渠となっていて、用水路があったことがわかりません。区役所や警察署など荒川区の官公署が集まる中枢も、昔は牧歌的風景だったのですね。まあ、その頃の池袋も新宿も渋谷も郡部でのんびりした風景であったのですけど。

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この延命地蔵と共にあるのは、交通安全地蔵。戦後、近くに住む蕎麦屋の娘さんが出前の途中で、トラックに跳ねられ、反対車から来た車に轢かれて亡くなりました。それを見て憐れんだ近所の印刷業の方が昭和31年に建立したお地蔵さんです。このお地蔵さんの参詣者であった金物屋さんが、ある日、トラックに跳ねられたが、怪我一つしなかったのは、このお地蔵さんのご利益と屋根をかけた。こうして日々、地域の安全をお地蔵さんは見守っている。

お地蔵様の話をもう一つ。以前、住んでいた東日暮里の家から日暮里駅に向かう途中に寿美吉地蔵という小さなお地蔵さんがあります。特に由緒が書いてあるわけではないので、個人的にお祀りされているお地蔵さんだと、ずっと思っていたのですが、調べてみると、明治時代に、三河島に入植、開拓をして功績のあった沢辺氏の顕彰と供養を兼ねて、大正4年に近隣の住民が建立したものだということがわかりました。



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