荒川区内で75年前に起きた猟奇事件は世間を震撼させました。その事件の経緯を書いてみようと思います。

荒川区内の尾久は大正3年に怪我をした少年が碩運寺の井戸水で洗ったところ、血がすぐに止まったことから、ラジウム鉱泉があることが発見され、急速に湯治場として発展し、三業地としても賑わっていました(今では温泉があったころの隆盛はわかりにくくなっていますが)その尾久で起きた猟奇事件は「阿部定事件」有名な事件ですが、今ではネットで「阿部定」と検索しても「阿部サダヲ」が出てきてしまう所は風化してきているのかなとも感じさせられました

今回は阿部定の事件に至るまでの半生を書きます

阿部定は明治38(1905)年に神田区新銀町(現在の神田多町)の裕福な畳屋に生まれます。近隣では評判の美少女であったらしいのですが、15歳(数え年だったので14歳)の時に近所の慶大生とふざけあっているうちにレイプされてしまい、それが泣き寝入りとなってしまう

出血が2日も止まらなかった阿部定は「自分は処女ではない、このことを隠して嫁に行くのも嫌だし、話すのも嫌だ、嫁にも行けない」とヤケクソになり、高等小学校を自主退学し不良少女となっていく。

家から大金を持ち出して不良仲間を連れて浅草界隈で遊び歩き、浅草の女極道「小桜のお蝶」とも張り合い、不良としての名前も鳴り響いていく。家では昼前に目を覚まし、女中に食事を運ばせ、風呂を済ませると不良仲間を引き連れ浅草に繰り出す生活をしていた

姉が結婚したことで体面を保つために奉公に出されるが、奉公先で盗みを働いて実家に送り返され、激怒した父に監禁同様の生活を送らされる。しかし、長男がありったけの現金を持って蒸発したために、畳屋は店じまいすることになり貸家を幾つも持っていて生活に困ることのなかった阿部家だが、埼玉県の坂戸に転居することになった

その後も、阿部定は男との交際を繰り返し続けたので、手を焼いた父と兄は
「そんなに男が好きなのであれば芸妓にでもなってしまえ」と女衒(女性を人身売買する職業)の秋葉正義という男に売ってしまった

阿部定は秋葉に夜這いをかけられ、秋葉をヒモとして養う。横浜や長野で芸者として働いていたが、関東大震災で家が全焼した秋葉を助けようと、前金1000円(当時の金額では立派な一軒家が建てられた)の借金をして富山の芸妓屋に身売りし、秋葉一家の面倒を見た

売れっ子芸者になるが、20歳になると秋葉に騙されていたことを知り、縁を切ろうとするが、芸妓屋との契約が秋葉と連判であり、借金返済もあるために縁を切れずにいて、芸妓から娼婦に身を落としてしまう

大阪の飛田新地や兵庫、名古屋の娼館を転々とし、トラブルを起こしては失敗と逃走を繰り返し、どんどん客層の悪い店に落ちて行った。丹波篠山の下級娼館大正楼から逃げ出すと妾や仲居として各地を転々。母と父が相次いで亡くなり、金に困った秋葉に指輪を質入れして150円を用立てたことから関係が復活する。妾として男を渡り歩くが、愛人から婚約不履行で訴えられると名古屋に逃れた

名古屋で市議会議員で有名商業学校の校長であった大宮五郎と知り合い、大宮と付き合い始める。大宮はそれまで阿部定が付き合ったことが無い紳士的な人間で、それまでの生活を叱り、更生するように諭した。ゆくゆくは店を持たせるつもりで、真面目な職に就くように説得した。そして新宿の口入屋で紹介されたのが中野の鰻料理の店、吉田屋であった。この吉田屋の主人が阿部定事件の被害者、石田吉蔵でした。

こうして阿部定事件へと発展していく幕が開けていくのであります

可哀想な話と言えば可哀想なのですが、坂を転がり落ちるように転落していくのは止められないものかと。時代背景も今とは違うのですが、ちょっと悲しい気持ちにもさせられますね。


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