荒川区に関する事件として、阿部定についてのことを書こうと発起して1回で書こうと思ったものが、あれこれ調べるうちに長くなってしまい4回に分けてしまいました。忘年会などもたくさんあったので間も空いてしまいましたね


上野の料亭で女中頭兼マネージャーとして勤務ぶりも真面目であった阿部定ですが、台東区の国際通りに小さなバー「クイーン」を開店するが、従業員に店の金を持ち逃げされて半年で閉店

1967(昭和42)年、阿部定が62歳の時に、親代わりとなっていた秋葉家を出て台東区竜泉に「若竹」という住居兼店舗でおにぎり屋を始めた。看板はおにぎり屋であったが、三味線を弾き語りする女性が一人いて、カウンターでお酒を飲ませるお店であった。

神田で幼少の頃に近所付き合いのあった浅香光代や定に心酔した舞踏家の土方巽、有名力士や相撲部屋親方、国会議員らが常連であった。1969年に製作された映画『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』に63歳の定本人が出演している。事件のことは一切語らず、客からも評判が良かったが、当時を知る警察や司法関係者が金をせびりに来たり、身体を要求したり、お店を手伝っていた女性が病気になり、定一人で店を切り盛りしていたが、世話をしてくれていたバイセクシャルの恋人に店の金を持ち逃げされ、店をたたんで借金を清算したが、それでも全ては工面できなかったという

1971年1月に以前、上野の料亭星菊水にスカウトした島田国一と浅草仲見世で偶然会って千葉県市原市の勝山ホテルで「こう」という名前で働いている。65歳という高齢にもかかわらず若い男性に金品を貢いでは気を引いていたという証言もある。、6月ごろに「リウマチを治療し、7月8月が過ぎたら戻る」という置手紙を残し、浴衣一枚だけを持って失踪した。その後、1974年前後の3か月間に浅草にある知人の旅館で匿まわれていたという証言を最後に消息不明となった

老人ホームで亡くなったなどの噂はあるが全く消息が不明で、定が1955年に石田吉蔵の永代供養手続きをした久遠寺には、命日に毎年花束が届いていたが1987年前後から花束が供えられなくなったので、そのあたりに亡くなったのではないかと推測されている。おにぎり屋の「若竹」には未納税金があり、行方不明者として戸籍は現在も残ったままだそうです

事件をモチーフにした大島渚監督の「愛のコリーダ」は外国でも評価が高かった。事件後に新聞各社は男性器をどう表記して良いか悩み、「局所」や「下腹部」という言葉を使い、それが定着したという

石田吉蔵のうなぎ料理屋「吉田屋」は石田の死後、妻が切り盛りしていたが、戦中に酒を扱う店の営業時間短縮を命じられて廃業。板前見習いをしていた長男も戦死したために石田は港区南麻布仙台坂下の専光寺に無縁仏としてまつられている

石田と同時期に定と関係があった中京商業校長で名古屋市議会議員であった大宮五郎は重要参考人として身柄を拘束され尋問を受けるが、不問とされ釈放されたのちに役職を辞し隠居生活を送った。定は石田を愛していたが、同時に大宮先生も非常に尊敬していて関係を絶てなかったと証言している

2人が最後に過ごした尾久の満佐喜は部屋に二人の写真を飾り、着ていたドテラや、読んでいた主婦の友まで展示したくさんの客で賑わった

定が逮捕された品川の旅館品川館も部屋をそのまま保存し、旅館の主人はスクラップブック片手にその夜のことを熱弁し、こちらも客で繁盛した。逮捕前日に定をマッサージしたマッサージ師は新聞各社の取材謝礼で家を新築するほどだったという

阿部定は直情で純粋であったのかもしれませんね。それが不器用で、その後も騙されたり、人に利用されたりもして。価値観が多様な現代であれば、もっと違った生き方もできたかもしれません。人生の転機が何度か訪れても、それを棒に振って同じようなことを繰り返してしまうのも人の性なのでしょうか。他人の人生を客観的に見ると様々なことが見えてくるのかもしれませんね

ちなみに阿部サダヲって阿部定から芸名をつけたことを初めて知りました