鳥取藩士平井権八はわずかな遺恨(父が飼っていた犬をけなされたとか、家柄を侮辱されたとか)から同僚の本庄助大夫を殺害し江戸に出奔した。江戸に逃れた権八は吉原三浦屋の小紫に惚れ込み通いつめ、遊ぶ金欲しさに辻斬りをして金を奪う暮らしをしていた。権八に切られた者は130余名にも及ぶという・・・・・今で言ったら強盗殺人鬼と言えますが・・・・・

本庄助大夫の遺児、本庄助市、助七兄弟は父の敵を討つべく箕輪(現在の三ノ輪)に家を借りて権八の行方を捜しますが、逆に権八に察知され、兄の助市は吉原田んぼで襲われて絶命。弟の助七は殺された兄の首を浄閑寺で洗っている所を、隙をつかれて権八に襲われてこちらも殺されてしまったという。敵を討つことなく返り討ちにされてしまった兄弟を憐れんだ人達によって首塚がたてられた。首洗いの井戸も埋められてしまいましたが痕跡は残っています

その後の平井権八ですが、お尋ね者となった権八を目黒不動近くの普化宗・東昌寺(廃寺)の住職がかくまい、そこで尺八を習い、改心し、虚無僧になる。 諸国遍歴中に郷里の鳥取に帰るが、すでに父母はなく、病にかかり、死ぬ前に一目、小紫に会いたいものと、大阪奉行所に自首。 江戸へ連行され、延宝7年(1679)、品川・鈴が森で処刑される。 自分のために大罪を犯して獄門(晒し首)になったと知った小紫は、吉原を抜け出し、権八が葬られた東昌寺で後追い心中をしたといいます

辻斬り強盗と心中ですからまともには供養できなかったので、目黒不動尊に権八と小紫の比翼塚が建てられたのではないかということです。事件があって100年後には浄瑠璃や歌舞伎で脚色されて平井権八は白井権八という名前で演じられ、4代目・鶴屋南北による『浮世柄比翼稲妻(うきよづか・ひよくのいなづま)』の1場面、「鈴が森」で江戸市民の人気を博したそうです。

明治新政府は普化宗を弾圧したので、東昌寺は明治に入って廃寺になってしまいました。結ばれることなく終わったはかない愛に感じ入る人も多かったのでしょうけど、改心したとはいえ130人も強盗殺人をして本庄兄弟を返り討ちにした権八に同情する気はあまり起きないかも・・・・・・

浄閑寺の墓地には江戸時代の侠客 濡紙長五郎の墓があります。長五郎は元相撲取りで、濡れた紙は刃物を通さないと言われたので、常に濡れた紙を額に当てていたので「ぬれがみ」の異名で呼ばれたと言います。侍と喧嘩をして、これを殺したことが浄瑠璃「双蝶々曲輪日記」で描かれ有名になりました

その他、幕末三筆の一人卷菱湖門下の四天王と呼ばれた、著名な書家の萩原秋巌(はぎわらしゅうがん)の墓や、爆笑王、笑いの水爆と呼ばれて一世を風靡した落語家の三遊亭歌笑の墓があります。人気絶頂のさなか、銀座で道路横断中に米軍のジープに轢かれて32歳で亡くなっています

墓地にはひまわり地蔵があり、山谷で無縁となって亡くなった方を供養しています。

浄閑寺では身寄り無く亡くなった方や横死された方などを多く供養されています。そこには亡くなった方の思いを考えると「悲しくなったり」「怖い」と思う方もいるかもしれませんが、そういった人々を供養していこうという優しさもあったことを忘れないで行きたいと思います。