続き物を書いてたけど

ちょっとその前に書きたいことがあるのだ。

 

 

見えない・聞こえない「はず」のこと につき。

 

 

私は憧れておりました。

そういう存在達とコンタクトがとれるひとってのに。

体をもたない でも私たちを支えてくれる

ほんと「かみさま?」っておもうような

沢山の存在のこころに、

その有り様(よう)に・・・

 

 

今の私は

多分その一部を垣間見ます。

そういうことが出来るんじゃないかということは

実は知っておりました。

血筋なので。

でも スゴイ勢いで否定してたから

(憧れるけど、私にあってはいけない、という)

ものすごくややこしくしたんですね。

 

 

 

そして今 とっても思うこと。

 

現世 というものが

辛くて嫌な気持ちばっかりが

うようよしてる世界だとしても

やっぱり そこは

タマシイにとって遊園地なんだと。

 

 

そこを こんなに信頼と温かいモノを抱えて生きていられるのは

本当に素晴らしい、有り難いコトなんだ、と。

 

 

「経験」を重ね「記憶」という薄い薄い紙を積み上げ

「時間」という整理ファイルで仕切ることで

「生きている私」を確認すること

気持ちのアップダウンを感じられること

自分のなかにある 

エネルギーの動きを観察できること

それは 生まれてこの世を味わい尽くしておいで、と言われ

遊園地のチケットを握りしめて暮らしていくこと。

 

 

 

なんという幸福でしょうか。

 

 

 

見えない(もともと居たあたりの)世界に憧れを持つのはいい。

でもそこに集中するのは 

私たちが第一にすべきことではない。

「現実」を遊ぶために生まれた私たちを

惑わさないために

不必要に「見えない」ように

「聞こえない」ようにしてもらっている

そういうこともあるんだろうと思うんです。

 

 

本当にあなたを愛し気遣ってくれる存在なら

むやみやたらと あなたの人生に現れない。

現れて、言外の「有り難いでしょ、嬉しいでしょ?」を

私たちに注ぎ込んでくるのは

人間の一生を生きている私たちの人生の乗っ取りだからね。

 

 

私、ずっと悩んでました。

見えたらいいな、聞こえたらいいな、が

普通にアクセス出来るモノだと知った時。

見えない 聞こえないモノが 

認識出来るなら

つまり「ごく一般には」できないことが出来るなら

それを役立てるべきなのかな と。

 

 

でも ぐるぐる見渡してみて

自分の内側をじっくり眺めてみて

「どんなヒトも 本当の意味では助けはちっともいらない。

どんな経験も 実は宝物だから」と気付いたの。

 

 

 

そんなことに気付くと

相談に乗るとか 聞こえるモノを伝えてあげる とか

要らないよね・・・になるんだ。

手を貸してもらえたら、って思うときがあるのは知ってる

だから セッションメニューを残してるけど

今の私、ホントにはそれやらなくてもいいや、って。

 

 

氷理(ひさと)が 龍の格好になって

くるりん、と回りました。

よく気付いた、よくそれを認めた、って。

 

 

普通の生活を 大事に生きてみると

現実世界を「私が」動かしたい し

それをやってる ということがわかります。

 

 

 

そしてちょっと仮の結論が出たので

次のステップに入りました。

この地に ずっと考えていた「人の集まる場所」をつくって

みんなが輝けるようにする。

みんなの背中を押してあげる。

歩き出すヒトが増えたら そこから手伝いをもらって

私は日本で会社を始める。

 

 

はっきり分かってたわけじゃないのだけど

結果的に いくつものことを同時進行で

数年後のそのある一点での大きなスタートを目がけて

この数年かけて すでにいろんなものを動かしていた。

それを動かし始めながら

微妙に時間調整もしている自分がいた。

 

 

 

これからまた

私の周りの人は変わるんだろう。

好き/キライじゃなくて 

ただ 入れ替わるんだ。

で、どの辺のヒトと新たに関わるかはよく分かってる。

どの辺のヒトとの接点が今もこれからも続くかも

実はよく分かってる。

 

 

 

ほんとに現実的なビジネスを動かしながら

スピリチュアルとよばれるものを手許において

私は歩いて行くんだろう。

ほんとに現実的なことを 他人に見せながら伝えながら

私たちがいかに 見えない存在に支えられて

かつ「コントロールされてしまってはあちらも本当の意味で迷惑」ということを

時々 伝えて行くんだろう。

日本人が かつてそうであったように

神様のために生きるのではなく

自分の人生を生きるため 神様をココロの一部において

「神様に見られていて」もはずかしくない

良い一生を送るようになるひとを 増やすんだ。

 

 

 

神様は 神棚に飾るモノではない。

仏さまは 最後の救い っていうより

いつだって 一番辛い時ギシギシ音がしそうなココロを

優しく包んでくれる 

自分のなかに置いておくモノなんじゃないかと思う。

それは特別なことではない

自分がどう受け止めるかだ

自分のなかの場所をはっきり認めることだ。

それは 凄い事でもマジックでも我欲を満たすモノでもない

自分がどう 生きたいか というだけ。

 

 

今年ものこり1ヵ月

やっと海底の真っ暗で音のしない世界から

海面にあがれそうです。