総勢16名で特攻隊の聖地 知覧 に行ってきました。鹿児島市内から車で1時間、どこまでも続く山道の先にその地はある。10年ぶりの訪問だったので、とても楽しみでした。

到着後は、特攻おばさんの店 知覧茶屋 にて昼食。知覧茶屋は、特攻の母「鳥濱トメ」の味をそのまま引き継いだお店で、特攻前夜に隊員たちが食べた料理をそのまま再現して提供していただきました。

その後は一同、特攻平和会館へ。この町に第二次大戦で特攻攻撃隊の最大の基地がありました。アメリカ軍に対し250キロの爆弾を飛行機に積み込み、敵艦に体当たりをする。特攻隊員達は、下は17歳から多くは20才前後の前途有望な若者でした。

ここには彼ら特攻隊員の遺書や手紙が数多く展示され、涙なくしては読めません。そのあとに当時の様子を再現してくれる語り部の講話が30分ありました。10年前に訪問した時はまだ特攻隊員の生き残りがいました。しかし2年前に最後の一人がなくなり、残念ながら今はもう全員なくなったそうです。今回は整備を担当する方で、ゼロ戦のプロペラを回して見送ったそうです。

一通り、館内を見学後、鳥濱トメさんの実の孫にあたる鳥濱 明久 さんにスライドとともに特別な講演をいただきました。講演後は明久さん自ら、半日 知覧をご案内いただきました。

まずは三角兵舎へ。展示は復元されたものですが、実際は人が一人立てるギリギリの高さだそうです。2~3日後には必ず命を落とすと分かっている若者たちが、この三角兵舎で食事をしたり遺書を書いたりしていたそうです。いったいどんな気持ちで過ごしたのだろうかと思う。自分なら絶対に耐えられないだろう。実際に17~18歳の少年たちだから夜は震えてながらき声が聞こえたという。また実際の特攻隊員を見送る場所や、山の奥にあった三角兵舎の跡地にもご案内いただきました。

館内に展示してあった手紙のほとんどは、母親あての手紙だったという。「親不孝をお許しください。 お国のために散って来ます・・・」今でいう高校生が凛とした美しい字で書かれている。

戦争という狂気の時代だったとは言え、こんなことは絶対に許されるべきではなかった。でもこれが「犬死だったか?」と言われたら、あまりにも空しい。じつはそんなことはなくて、大きな意味があったという。明久さんは、特攻隊員のおかげで本土上陸の抑止力となり、今の日本は独立国家を保てているという。 

確かにドイツも東西に朝鮮もベトナムも南北に分断された。日本もルーズベルトとスターリンの協定で北海道はソ連、本州・四国・九州はアメリカで統治することが決まっていた。じつは特攻隊員のおかげで米軍の本土上陸を阻止でき、日本は分断されずに済んだ。もし特攻隊の脅威がなければ、アメリカ軍は九州に上陸し、それを見たソ連軍はすかさず北海道を占領しただろう。そう考えると北方領土だけで済んで良かったと思った方がいいかもしれない。

大の嫌日家のルーズベルトが、終戦4か月前に幸運にも急死した。もしルーズベルトの死が、あと半年伸びていたら、日本は完全に分割され、歴史は大きく変わっていただろう。

ところで戦争の最大の犠牲者は、若き特攻隊員とともに苦労して生んだその母親であった。私たちは今の平和の世の中を決して当たり前と思ってはいけない。今こうして平和に生きていけるのは、まぎれもなく彼ら特攻隊員のおかげであり、その事実をかみしめ常に感謝の気持ちをもって生きていくことを誓いたい。皆さんも是非 機会を作って知覧を訪問してください。きっとあなたの人生観が変わると思います。