(キンカン初期型)

キンカンという塗薬をご存知だろうか?

虫刺されや腫れ、痒みに効能を発揮する昔からある家庭の常備薬だ。その初期型のパッケージは平たいガラス製の本体にゴム製のキャップで封がされておりそのキャップの内側に薬剤塗布用のスポンジが装備されていた。またその薬剤の特徴は皮膚の患部に塗布したときにスーッと爽快感を覚えることだ。そしてこの薬剤のもう一つの特徴は強烈な刺激臭にあった。何故ならば薬品の主成分がアンモニアだったからである。ちなみにアンモニアはバーベル上げの選手等が試合前の気付け薬と使用されることでも有名だ。私が育った奈良の田舎都市では山間部が直ぐそこまで迫っていたこともありこの虫刺され薬は文字通り一家の常備薬であった。これはそのキンカンにまつわる悲喜劇である。

子供の頃のある日、私はテレビで洋画を観ていた。その洋画のタイトルもストーリーも覚えてはいない。だが劇中の或るシーンを鮮烈に記憶していた。それは劇中で博士が人体を冷凍して後にまた蘇生させるという人体実験を行うシーンだった。その最初の実験には博士が自ら被験者となり弟子に自分を蘇生させるときにアンモニアを嗅(か)がせよと指示していた。さて、博士を冷凍し数日経過した後に冷凍庫から博士を出した後に、弟子が博士の鼻にアンモニアを近づけると博士は驚いて飛び起きたのだった。その劇中のシーンを観た私の脳裏に寝ている人にアンモニアを嗅がせると驚いて飛び起きるという知識がかくしてインプットされたのだった。

(キンカン本体のゴム製キャップの内側に装着されていた薬剤塗布用スポンジ)

子供時代、私は家の二階、妹と弟は一階で寝ていた。私は学生時代に新聞配達のアルバイトをしていたこともあり朝の起床時間は早かった。そのこともまた妹と弟には災いしたのだった。新聞配達前又は配達を終えての帰宅後に件(くだん)のキンカンを徐(おもむろ)に手にした私は気付かれないように妹の就寝する部屋に忍び込み、そして笑いを堪(こ)えながら寝ている彼女の鼻の下にタップリとキンカンの薬剤を塗り付けたのだ。するとキンカンを塗り付けるや否(いな)やまるでびっくり箱のごとくに飛び起きた妹は鼻を押さえて悲鳴を上げながらのたうち回ったのだった。その様子を見ながら私もその場で笑い転げたのだった。やはりアンモニアは熟睡している人をも急激に眼を覚まさせるのだった。そういう朝のイタズラが続くと就寝を邪魔された妹もたまったものではないし腹にすえかねる。そこで次に妹がとった行動は弟に自分がされたのと同じ仕打ちをすることだった。彼女はキンカンを手にすると寝ている弟の枕元に忍び寄り彼の鼻の下にタップリとキンカンの薬剤を塗り付けるのだった。するとまたもや早朝の静寂を打ち破る弟の悲鳴と床をのたうち回る騒音が家中にこだまするであった。弟としても悔しくて仕方がない。しかし、他に仕返しをする相手がいない。いや、一人いた!一階には祖父も寝ていたのだった。弟はキンカンを手にするやその薬剤を寝ている祖父の鼻の下にタップリと塗り付けた。すると祖父は鼻を押さえて飛び起き、そうして弟を厳しく叱りつけるのだった。そうして最後は祖父に叱られた弟の泣き声で我が家の朝の儀式は終わりを告げるのであった。

(キンカン後期型)

おりしもその頃にキンカンのパッケージが変更になった。それまでのスポンジ塗布式からキャップを外して患部に薬剤パッケージを直接に塗布する方式のものに変更されたのだ。これを購入して家に常備した祖父もこのタイプなら孫たちがイタズラに使用しないであろうと考えたに違いない。しかしながらそれは幻想に過ぎなかった。確かにこのタイプのパッケージは寝ている人の鼻の下に気づかれずに塗り付けることは難しいだろう。しかし問題はこのタイプのキンカンのキャップだ。その大きさがパカっと鼻にかぶせるのに丁度良い寸法にできていた。かくしてパッケージを振ってタップリ薬剤で濡らしたキャップを先ずは寝ている妹の鼻の上からかぶせてみた。やはり丁度良い大きさだ。そしてギャーと悲鳴を上げて飛び起きた彼女はまたも床をのたうち回ったのであった。そしてその次は弟、又その次は祖父というルーティーンが再現されたのであった。私は一度趣向を変えて目の絵が描かれたサロンパスを先ずは寝ている妹の目の上に貼り付けるイタズラを思い付いて実行に移したのだったがやはり本人に気づかれずに就寝中とは言え目の上に異物を貼り付けるという作戦は失敗した。その貼り付けに失敗した目が描かれたサロンパスは暫くは妹が就寝する部屋の襖(ふすま)に貼り付けられていたのだった。

キンカンの物語である。


おわり。


(キンカンの写真は株式会社キンカン堂様その他よりお借りしました。)