ひとりごと(追記) | 月のベンチ

月のベンチ

両親の闘病記

意識があることが
いいことなのか

意識がない(反応がない)方が
いいのか

母に対して
周りは
都合よく使い分ける


『意識がある方がいろいろ大変だ』
とか
『意識があれば張り合いがあるだろうに』とか


意識がないから
治療法も制限され

意識がないからリハビリも制限され


だから自分で何とかするしかなくて

それでも限界があって





意識があればあったで
大変だろうけど

少なくとも
いろいろな選択肢は広がる可能性がある



治療にも検査にも

『意思疎通』が必要だ


危険だからだ。





痛い
かゆい
苦しい
痺れる
……

さまざな症状を訴えられないと
治療も検査も危険で
限界があるのだ


だから、
意識のある人はいい。



痛くても
苦しくても

たとえ治らなくても

訴えられるじゃないか


泣いたりわめいたり
できるじゃないか



【差別】と【区別】

この三年、ずっと差別されてきた気がする。

急変での救急車も
一般病院の受診も
リハビリも
いろいろな療養病院の職員の間にも





意識障害の母の前に
いつも高い壁があった

私はその壁を叩き割ることができなかった

代わりに
ほんの小さな穴を開けようと
何度かやってみた

穴はすぐに塞がれたこともあった
ときには壁の向こうから細いクモの糸が流れて来たこともあった

入院中の病院以外に
相談した医療機関やドクターは一人二人ではなかった


それでも
意識障害への【差別】は
医療業界、介護業界に浸透していた




悔しいことは
たくさんあった

今も山のようだ。


書きたいことはいろいろあるけど

言葉にしてはいけないこともある