《改編》尊厳死と安楽死 | 月のベンチ

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両親の闘病記

--尊厳死とは
「人間が人間としての尊厳を保つべく臨む死」

そして、「消極的安楽死」と同義語とされている
(積極的安楽死は殺人である)

が、消極的安楽死の定義は国によっても異なっているようだ。



ブログをやるようになってから、尊厳死や、延命措置について、さまざまな人の考え方や意見を見てきた。

私は次第に医療そのものが延命だと考えるようになった。

人工呼吸器、人工栄養(胃ロウ・腸ロウ・中心静脈など)、人工透析が延命措置の代表のように掲げられている。

私の叔母も、実は人工透析をしている。

「人間としての尊厳を保つ」--
これは、どこからどこまでを指すのだろうか?

自力摂食?
自力排泄?
自力移動?

それとも、意識のあるなし?

それらが保てなければ人としての尊厳はない?

だから母は他人から荷物のように扱われることがある?



私は思う。

その人の、人としての尊厳を保つのは、周囲の人間の在り方なのではないのだろうか?

世間一般の人たち(家族を含む)が、その人に、人として接すること。

それこそが、人としての尊厳を保つことなのではないのか?


なぜ人は生きるのか?
その問いの答えがない代わりに、生きるためにはどうしたらいいかを考える。

それと同じなのではないか?


それとも、意識障害者は、生きていくことそのものが「不幸」「苦痛」でしかないのだろうか?

そこに「尊厳」は存在しないのだろうか?


ただ、《延命治療》を選んでも選ばなくても、そこには家族たちの「涙や血をしぼるような」思いがあり、その結果であることを知ってもらいたい。